第288話
朧気な視界の中で、両手を軽く広げて笑みを浮かべる覇鬼。その姿を微かに見えた村正は倒れる最中、覇鬼の全身を隈なく見据えるように視線を動かした。
そこに傷という傷はなく、先程与えたはずの斬り傷すらも見当たらない。それは紛れもない現実だが、村正の脳裏に浮かんだ面影と覇鬼の姿が重なった。
「そうか……拙者はまた……負けたでござる、か……」
その記憶は六十年以上も前も話だ。妖怪として生まれ変わった村正が、鬼組へ入る前に経験した記憶だった――。
「お前の名は何と言う?」
「拙者の名、でござるか?」
「あぁ。せっかく善良な人間であり続けようとしてたんだから、ただの人間が呼ぶ名前とかあるだろ?」
流れ者でしかなかった自分が、誰かに名前を呼ばれた事は無かった。何度思い返しても、自分の名前が呼ばれた事は無い現実を思い出した。その瞬間、心の奥底にあった感情が浮かんだ。
不快感にも似た喪失感。それを抱いて、折れて地面に触れる膝を強く掴んだ。
「拙者の名は……無いでござる。生まれも育ちも全て、もうずっと昔のように思えてしまう。拙者は既に、人間の名を忘れてしまったでござる」
「そうか。ならオレが付けてやるよ」
「??」
「――村正だな。聞いた話だが、お前はあちこちで村に居た悪人を正して来たんだろ?己の正義を守る強さと、それを行使する事の出来る強さがある。どうだ?お前にぴったりな名前だろ?」
「拙者の名が、村正?……」
「今日から家族になるんだから名前が無いのは不便だろ」
それじゃあ行くぞと付け足し、立ち去ろうとした男に問い掛ける。
「き、貴殿の名前を教えて戴きたい!」
「オレか?オレの名前はな……」
――それは走馬灯のように思い出して、村正はゆっくりと倒れた。折れた刀を握っていた手から力が抜け、刀は微かな音を鳴らして転がり落ちる。
「焔殿……総大将、殿……もっと一緒に、共に歩みたかった……」
倒れた村正の妖力が消滅した瞬間、鬼組の妖怪達は目を見開いたのであった。
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