56.月を隠して夜、あなたと浮上して ― 1

 住み替えた部屋で過ごす初めての夜。

 今回も部屋の外に見張り兵が存在するものの、向こうは正規の出入り口である鉄の扉越しに立っているだけで自らイヴリーチと接触しようなどとは考えていない。またミェンタージュが面会に来るまで、扉が開くことはないのだろう。


 監視が薄まった今なら、何か有益な情報を手に入れられるのではないか?

 そんな思いから、イヴリーチは人々が寝静まる深夜に諜報活動を行うことにした。



 まず、尾を立たせ、できるだけ高所の石壁の継ぎ目に左の親指を突き立てる。

 ガリガリと爪先を回して硬い石を削り始めると、第一関節が入り切らないほどの、遠目からは目立たぬ小さな穴を作り出した。それは、指を引っ掛けるための穴だった。


 イヴリーチは削りに使っていた入れっぱなしの親指にグッと力を込めると、指先の筋力だけで己の体を持ち上げて石壁を登り始めた。

 左手が顔の横に来れば、次は右の親指で新たな引っ掛け場所を作り、また指で自重を支えながら上を目指す……そうして地道に上体を動かし続け、イヴリーチはいとも容易く星を覗ける天窓まで辿り着いた。



 円状の天井に、長方形のガラスが四方それぞれに一枚ずつ埋め込まれている。

 流石に見張りが飛んで来るので叩き割ることはしなかったが、イヴリーチは一ミリにも満たないガラスと石壁の継ぎ目に爪を立てると、また景気よくガリガリと削っていった。


 ボロボロと細かい石が下に落ちてゆくこと数分……はめ込みを支えていたふちの石がなくなったガラスは、ザリッと音を立てて壁から抜き取られた。


 一旦天井から降り、手にしたガラスをベッドの下に隠す。そしてもう一度壁をよじ登ると、イヴリーチはちょうど胴が入るギリギリの隙間を通り抜けて、ついに塔の外へと脱したのであった。



 塔の外……それも地上百メートル近く離れた天辺部分から眺める景色は、人間のままでは味わうことのできなかった絶景だった。

 元々高所に位置するこの城の内でも、抜きん出て高い場所……このどこまでも続く月も陰る暗闇の地平線の、何と不思議な光景か……。


 手を伸ばせば彼方かなたへ届きそうなのに、何も掴めない。どこへも行けない。

 平凡に暮らせればそれでよかったのに、どうしてこんなことになってしまったのか――。



 自嘲気味に笑うと、イヴリーチは気を紛らすかのように、眼下で動き回る小さな光の点へと目をやった。


 城や街の中を行き来するそれは、見回りの兵士が持つ松明たいまつの明かりなのだろう。

 いくら暗がりが味方してくれるとはいえ、この目立つ体で警備の目をかいくぐりながら城内で情報収集を行うのは、なかなか骨が折れる……ということで、イヴリーチは手始めに、自身が幽閉されているこの塔と対になっている、双塔の片割れを調べてみることにした。


 見た目が同じであるならば、向こうの塔も幽閉用として使用されており、何者かが閉じ込められているのだろうか?

 そう思いながら試しに熱感知能力を働かせて生命反応を探ってみると、向こうの塔の頂点……ちょうどイヴリーチが閉じ込められている部屋と同じ部分に当たる部屋から、一体の熱反応を感知した。


 イヴリーチは”ドクンッ”と、心臓の鼓動を鮮明に感じた。


 もしかすると、あれはベルトリウスではないのか?

 地下牢から彼を運び出す際、ミェンタージュはベルトリウスも競りに出展しようという話をしていた。そうすると、ベルトリウスはあそこで死に切れないまま、クリーパーに回収されないまま、瀕死ひんしの状態で生き永らえているのではないか?


 イヴリーチはどうにか向こうの塔までゆき、捕らえられている人物を確認しなければと急いた。

 幸いにも、両塔は渡り廊下で接続されている。そこを辿れば、地表をうろつく警備を気にすることなく最短の道のりで向かうことができるだろう。

 イヴリーチの強靭な肉体であれば、ここから渡り廊下の石屋根の上へ落ちてしまっても大丈夫だろうが、その時に大きな音が立って注目を集めてしまうのはよろしくない。


 そこで、イヴリーチは足元の外壁に目を落として、体を引っ掛ける場所がないか探した。

 一定階ごとに設けられていた窓代わりの四角い穴を発見すると、その部分に尾を垂らし、先端を”コ”の字型にして引っ掛けた。

 深呼吸をしてからグッと下半身に力を込めると、イヴリーチはゆっくりと建物から身を乗り出し、そのまま真っ逆さまに落ちていった。


 イヴリーチは尾をかぎのようにして扱い、上手く宙ぶらりんの状態になると、そこからさらに腹筋に力を込めて、尾と交差するように上体をくねらせて起こし、窓に手を掛けて、また同じ要領で下へ下へと移動していった。


 四回ほど逆さの景色を味わうと、彼女は見事目的の渡り廊下まで到達した。

 塔を下りたばかりだが、平坦な石屋根を越えれば次は天辺へ向かうために、そそり立つ壁を登らなければならない。

 こちらは尾を使って時短移動するのは無理そうなので、部屋から脱出した時のように、地道に壁を指で削りながら登っていくことにした。

 結局ものの十分で天辺まで登りきってしまったイヴリーチは、早速天窓のガラスから内部を覗き込んだ。


 そこにいたのは―― 一人の少女だった。


 イヴリーチは息を呑んだ。

 家具一つない殺風景な部屋の真ん中で、膝を抱えて座り込んでいる少女……先程まで雲に隠れていた月が顔を出して、上空から光が降り注がれると、地べたまで伸びた彼女のウェーブがかった長い銀の髪がキラキラと輝きを放った。


 あんな美しい髪は見たことがない……遠目からでもサラサラと絹のように細やかな髪だというのが分かる。あれは良い生活を送っている者の髪だ。定期的に湯浴みをできるような、恵まれた環境に身を置く者だけが保てる髪質。


 あの少女はどういった事情で、この塔に幽閉されているのだろうか?

 イヴリーチが食い気味に覗いていると、ふと少女が、何を思ったか天井を見上げてしまった。


 バチッ……と、お互いにしっかりと目が合う。


 イヴリーチの外見は、ほとんど人外の域に達している。

 顔面をも覆う全身の黒い鱗、地獄ではありふれた真紅の瞳。個々の部位が夜の薄暗さではっきりと視認できなくとも、蛇との混ざりものである異様な輪郭は一見して奇怪な生き物だと分かるはずだ。


 少女が驚愕して悲鳴を上げる前に退散しなければ―― !

 そんなイヴリーチの考えに反し、少女は口を半開きにしたまま、少々間の抜けた反応を取り続けていた。


 髪が銀なら、瞳は金ときた。目も鼻も口も、どこを取って見ても整った顔立ちの彼女は、美の神・カヤスリエがその手で直接生み出したのではないかと思うほどに、美しさは勿論のこと、どこか異質さとあやしさを感じさせる不思議な出で立ちをしていた。


 イヴリーチは思わず現状の危険性も忘れて、目を合わせたままにしてしまった。


「あなた、だれなの?」


 ついに言葉を発した少女の声は壁に隔たれていてくぐもり、上手く聞き取れなかったが、少なくとも人を呼ぶ気配がないことは把握できた。

 イヴリーチはハッとしたように思考を回転させ、この少女を利用してパジオやミェンタージュに関する話を聞き出すことに決めた。


 そうして例の如く、石壁にはめ込まれたガラスの継ぎ目に爪を立てたのだった。

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