とてもつまらない三枚綴り短編集2

スエテナター

第1話 水晶

 ぼくの心から水晶がなくなった。

 水晶の化学式はSiO₂。二酸化ケイ素の結晶。

 その結晶が、ぼくの心だけでなく、頭の中や目の中、体中のどこをあらためても見当たらなくなってしまったのだ。

 もともとその水晶のあった心の窪みには、森々とした夜の闇がぴったりと嵌まり込んで、ぼくを慰める真似事をしている。

 ひと抱えもある流動的なビーズクッションに頭を預け、目を閉じ、心に新しく棲み着いた冷たい闇を、指でゆっくり撫でてみる。心の闇なんて本当には撫でられないので、空想で手を動かす。どこを撫でたらいいのかは分からない。暗い空間を真一文字になぞっていくと、平たく見えた闇はくすぐったそうに皺を作って、くしゃっと笑ったように見えた。

 ぼくを慰める振りをするのは面白いようで、闇はじっくりとぼくを見下ろす。

――お前は水晶にも闇にも翻弄されているんだよ。

 そう笑われているようだった。

――それはきっと仕方のないことだよ。実際ぼくは水晶にも闇にも翻弄されているし、笑われて当然の人間なんだよ。

 全てを諦めるように、ぼくは闇の嘲笑を受け入れた。反論をしても際限のない追撃を受けるようで、ぼくにはもうそんなものに付き合う元気がなかった。

 ぼくは闇と対話するのをやめて起き上がり、ローテーブルに置きっ放しにしていた文庫本を手に取った。子供のころ旅行先で買って気に入った絵葉書を栞代わりに挟んでいる。どこまで読んだんだろう。ずいぶん読んだ気がする。ぼくは文庫本の端を親指で弾きながらペラペラとページを捲った。

 結局、どんなときでもぼくのそばにいてくれたのはこの文庫本だけだった。そんなことを思うと、突然胸が透明の炎に燃えて、恋い焦がれるような激しい懐かしさが熱風になってぼくの頬に吹き付けてきた。

 ぼくの心がむずかると、ぼくの手はいつも本を探した。決してぼくを脅かすことのない、読み慣れた、気心知れた一冊。

 ペラペラとページを捲っていると、栞代わりの絵葉書の裏から、何かきらきら光る小さな薄い欠片が落ちてきた。

 ガラス質の、紙のように薄い一片。

 SiO₂。

 それは、水晶の欠片だった。

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