第57話 イアン・ウォーレンの話

 尊敬する父と優しい母と仲のいい兄弟を持ち、イアン・ウォーレンの日常は幸せなものだった。

 あの日が来るまでは。


「王属官職の納税部及び警務部だ。ジャギー・ヘルマン子爵、家宅捜索令状に基づく捜査を開始する」


 寝る準備をしているヘルマン家に押し寄せた大人達に皆対応に追われた。

 イアンはすぐに弟フランシス、妹リネットと共に子供部屋へと連れて行かれる。母は1人の侍女に指示をすると急足で自分たちの元へやってきた。


「大丈夫よ、心配しないで。少ししたらあの方達は帰るから、しばらく遊んでいてくれる?」

「母様、あの人たちは?」

「お父様のお仕事の人よ。私も行かないといけないから、戻る間に何かあればメアリーに言ってちょうだいね」


 聞きたいことはまだあったが、有無も言わさぬ雰囲気にイアンは黙って頷いた。


「イアン、2人を頼んだわよ」


 イアンの髪をそっと撫で、フランシスとリネットにも声をかけると母は抱っこ紐で眠る妹を抱いて部屋を出た。

 部屋の外からはわずかに喧騒が聞こえる。それも1時間ほどすると次第に消えていった。時刻は8時を過ぎて兄弟たちは眠りについた。

 母はまだ戻らない。それどころか母の怒る声が聞こえる。

 不安そうなイアンに気づいたのか、侍女はイアンの好きな蜂蜜入りのミルクを用意してくれた。それでもイアンの不安が拭われることはない。



 眠れないまま本を読みながら過ごしているうち怒った母の声も聞こえなくなり、邸宅内が静まりかえる。少しして母は子供部屋に戻ってきた。


「母様・・・」

「イアン・・・」


 起きていたイアンに驚いたものの、それも当然とイアンを責めることはなかった。


「驚いて寝られないわよね。でももう大丈夫よ」

「本、当?」

「ええ。お父様とお母様は明日お出かけしないといけなくなったの。戻るまで下の兄弟たちの面倒みられる?」

「もちろん、大丈夫だよ」




「ありがとう。困ったら執事に声をかけてね」

「わかった」

「いい子ね。もう眠りなさい」

「うん・・・。おやすみなさい・・・」


 ⌘⌘⌘⌘⌘⌘


 次の日の朝、父と出かけた母は父と一緒には帰って来なかった。


「お父様は?」

「イアン。・・・あのね、お父様は悪いことをしてしまって、帰って来られなくなったの」

「そんな・・・!」


 イアンにとって父は模範そのものだった。仕事で忙しいながらも最近は領地経営の基本を教えてくれるようになってきて、自分が認められたようでとても嬉しく自分もこんな大人になるんだと心底思っていた。そんな父が、信じられなかった。

 この日から、イアンは部屋に籠るようになる。そして2ヶ月後、父の帰宅を待たずに家を出ることになった。

 イアンが部屋に籠っていた間に邸宅は伽藍堂のようになっていた。家の中にあったお金になりそうな家財道具は一切合切売りに出されて、工場で不当に解雇された人たちへの賠償へと当てられたからだった。

 売らずに残された馬車で、家族と数人の使用人は母の実家ウォーレン家へと向かった。


「これからはここがおうちだと思って過ごしてちょうだい」

「う、うん」


 笑顔で迎えてくれた祖母にイアンは尋ねた。


「あの、お父様、は・・・」


 お父様というワードが出たとたん、祖母の表情が固まるのが分かる。しまったと思ったが、口から出た言葉を取り消すことはできない。

 どうしようかと思っていると一拍置いて祖母は口を開いた。


「お父様はね、すぐには帰って来られないわ。詳しいことはお母様にお聞きなさい」

「・・・はい」


 笑っているのに笑っていないような、いつもとは違う祖母の様子を見てもう父親のことは聞いてはいけないと感じた。

 聞けない代わりにイアンの中で消化できない何かが腹の底に沈んでいく。その消化できない何かを誤魔化すかのようにイアンの口ぶりや態度は険しく冷たいものとなっていき、それは図書館で働き始めた母に特に強く出ていた。

 そんなある日、朝ごはんを食べていると兄弟たちがご飯を遊び食べし始める。


「フランシス、リネット、遊ばないで食べてちょうだい。保育所に遅れてしまいます」

「「はーい」」


 兄弟たちは素直に食べ始めるが、イアンには2人を諌める母が妙に気に障った。父の帰りを待つわけでもなく実家に帰り、働き始めた母をイアンは認めてはいなかった。自分の知らないところで変化する母が怖かった。それに。弟と妹はそんな母の都合に付き合わされているというのになぜ急かされ怒られなければならないのか。そう思ったら言葉を発せずにはいられなかった。


「そもそも誰かさんが働きに行こうとしなければ保育所の時間を気にせず弟たちはご飯を食べられるのですが」


 そこからは口喧嘩の応酬が始まり、剣呑な雰囲気に弟や妹は閉口した。ここ最近は喧嘩ばかりしているこの2人を止める人は誰もいない。ただ嵐が過ぎるのを待つだけだった。

 結局、保育所に行く時間になっても決着がつかず、イアンは母の職場へと連れていかれることになった。そこで見たのは働く母の姿。


(なんでこんなに一生懸命に働いてるんだろう)


 父は労働者が働き、自分がそれを導く。そうやって領地経営は回っているのだとよくイアンに話していた。その労働者になった母を父を裏切った恨みと相まってイアンは見下していた。


(でも・・・。なんか楽しそうなんだよな・・・)


 あんな風に笑う母を、イアンはヘルマンの家を出て以来見ていない。今まで母の何を見ていたんだろう。そう思うと心がチクリと痛んだ。

 そんな中、イアンはレオンに城内見学へと連れ出される。そこでレオンに父のしたことを教えられると、今まで見えていたことが全てひっくり返るかのようだった。


「今日君の母が働いているのを見て、どう思った」


 そう問われて改めて思い返すのは、図書館のあちこちを行き来して楽しそうに働く母。

 父がしたこと、なぜ帰って来れないかを知った今、母への見方は180度変わっていた。


「楽しそう、だった・・・。忙しそうだったけど嫌そうじゃなくて・・・、すごく生き生きしてた」


 今なら素直に認めることができる。ウォーレンの家に戻ってからの母は沈みがちで、明らかに無理に笑顔を作っていた。それはイアンが反抗的な態度をとっていたことも原因の一つではあるが、妻として夫を止められなかった気づけなかったことによって自身を失っていた。4人もの子どもを自分1人で育てられるのかという不安もあった。

 しかし、図書館で働くようになって自分でお金を稼ぐという経験をしたことで子どもを育てる不安は薄れ、自信を取り戻していく。

 それがイアンに生き生きしているように見せた要因だった。


(俺もなんかしてみようかな・・・)


 城内図書館から帰って以降、イアンは勉強に勤しむようになる。本の虫となった彼の机には、王属官職になるための参考書が山のように積まれていた。

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