第14話 職場の先輩、木下とは

        

 ゴールデンウィークと世間からもてはやされた休暇は終わった。この春からの新生活に馴染めない人が真っ先に落ち込む初日、いわゆる世間で云う五月病で足取りがだるいのか心が憂鬱なのか定まらない人が通勤通学の流れからはみ出していた。はみ出さないまでも加納はかろうじてその流れの最後部を歩いていた。

「おい、急がないと遅刻するぞ入社ひと月でみっともない勲章をぶら下げるな」

 その声に振り向けば木下が後ろから追いつくと一歩前を歩き出した。それはまるで人混みをかき分けてエスコートするように彼は歩いてくれた。お陰で十戒のモーゼよろしく木下が拓けた道を俄然二人は肩を並べて会社へ滑り込んだ。


 木下きのしたは去年入社の社員で仕事の段取りは彼から教えてもらっていた。彼は中途採用でもう十カ月間になる。彼は大学中退で加納とは歳も近かった。彼に此のひと月は仕事以外にも人付き合いや世間を渡る要領も教えてもらっていた。

 六階建てビルの五階にある会社は、フロアー一面に整然と並ぶ事務机に鎮座するパソコンと睨めっこしてその日の糧を得ていた。新人に教えやすいように加納と木下は隣同士に机を並べていた。

 隣の顔色を見る余裕もなくパソコンの画面と格闘した社員が昼のチャイムが鳴ると解放されたように我先にと部屋を飛び出して行った。木下と加納も誘い合って近くの店へ昼食と休憩を兼ねて入った。この店は年配の夫婦がやっている店で人通りの少ない裏手のせいか落ち着いて食べられるからよく利用するようになった。

 カウンターは五人掛けで二人掛けのテーブル席も五つあった。場所が良くないのか込んだことがなかった。そのせいか幾人かの見知った顔ぶれが出来て落ち着く店だった。オーナーが元ホテルのシェフだけあって手頃な値段で凝った洋食が食べられた。

 注文を取るおばさんとも顔なじみなって世間話を時折交わすほどになっていた。そこで昼食とコーヒーを頼んだ。

「加納っち、お前連休はどうした」

「丹後半島を一周してきた」

「それって一日も掛からないだろう残りはどうしたんだ」

「まだ説明不足だったか、そこは僕が生まれた頃に亡くなった父の実家なんだ」

 ホウッと驚いて頷く木下に説明した。

「なんだそれじゃ余計な問題を背負しょい込まずに相続放棄しても良かったのに」

「まあなぁ、でもその役所の波多野さんの熱意にほだされてしまった」

「そう云う奴が一番詐欺に引っかかり安いんだ」

「相手は公務員だ」

「何言ってんだ警察官だって切羽詰まれば何をやるか解ったもんじゃないぞ、泥棒でも義賊っていう奴もいる。ようは人柄をキチンと見抜けるかだ」

「彼は間違いないと思う」

「どう間違いがないのか解らんが、十字をきって人を殺すキリスト泣かせの信者もいるだろう」

 こう話す木下は無神論者であるが決して神を信じない訳でもない。ただ頼らないし縋りもしない男だった。だが気が合えばとことん信じてくれる相手だった。まあその男はいとこを紹介して気の済むように愉しませたのだから間違いはないだろうと納得したようだ。

「お前と違って俺は何もなかったよ」

 その一方でそっちは苦労も絶えんなあと気遣ってくれて気持ちが休まった。この援護射撃は嬉しかった。大学時代はバイトに明け暮れて講義が終わると直ぐに部屋を飛び出して行ったからじっくり話し合える友は皆無だった。これだけは弟に言い聞かせてたい。人生はどんな友人に出会えるかで変わるからよく進路を考えろと伝えたかった。

「相続はともかく良い出会いがあったなあ」

「役所の波多野さん?」

「アホ、そのいとこの話だ」

「片瀬成美さん、なんか気があったみたい」

「そうだろう。その役所の男もたんに亡くなったお父さんの幼馴染みだった人の娘だけで話の取り次ぎを依頼しただけじゃないだろう。まあお前に好印象を持って事業の継続を図りたい思惑も有ったがそれ以上にいとこはお前なら相性が良さそうだと睨んだのじゃないか、その辺りからお前をど田舎に惹き付けられる魂胆が俺には見え隠れしたぞ」

「彼女はサッパリしていて波多野さんのそんな要件は見せなかったけどなあ。相続も深入りしなければとも言ってくれた」

「当たり前だ、女は恋したら負けだ。だからお前の本心を掴むまではこれっぽっちもそんな素振りを見せるわけがないだろう」

 恋したら負けか、そんな駆け引きを既に心得てるこいつは何者だ。

「木下さんは相手の懐に飛び込むような本当の恋をしたのですか」

「三年前にな」

 大学時代のバイト先で知り合った女の子で去年に訳あって別れた。

「退学したのもその辺の事情だ、今はそこまでだ。それよりその子にまた会う予定は」

「ない」

「えらいキッパリ言うのだなあ」

「どうして縁を繋げればいいのが解らなかった」

「簡単だ、そのいとこの波多野さんを利用しろ、向こうもお前が必要なんだろうお互い様だろう」

「そう云うのって苦手なんだなあ」

「子供っぽい奴だなあ。いい加減に脱皮しろ」

 そう云いながら木下が笑った顔が実に子供っぽくそのまま「もっと恋をしろでもつまらない大人になるな。そして見たい色を自分で決めろ」と続けて云うから自然と心の中に染み込んで行った。お陰で随分と気分が落ち着いた。

「木下さん」

「会社じゃあ先輩だからそう呼ばないと周りから変な目で見られるけど、二人の時はさん付けは止めとけ」

 俺はそう云う先輩風を吹かすのは性に合わないと言いたげに薄笑いを浮かべた。

「じゃあ木下」

「何だ!」

「やっぱり気分悪いのかなあ」

「気にするな、で、なんだ」

「いつ子供から脱皮したんだ」

「さあいつ頃からかなあ。世間に顔向けできないことをやらかして、家にも学校にも行けなくなって家出して、途方に暮れて橋の袂で乞食のまねをしていたら補導されてな。警察で散々説教されてな。それまでは子供のままでいたい。親からも離れて何もしないでノンビリと暮らしていたい。自由でいたい。でも欲しいものは欲しい。それで万引きして見つかったが、その時に俺は大人の隙間からスルッとすり抜けられた。そのまま家にも帰りにくくなった」

「どれぐらい家出してたんですか」

「三日、だがこれは世間で云う三日坊主とは訳が違う。子供から大人への脱皮する逃走期間だったんだ。筵を被って橋の上に三日居て見ろ強くなれるぞ。人間死んだら終わりだ。引きこもりも負け組も戦死も無意味だ」

「戦死? 僕は戦場には行かないけど」

「管理された世界は軍隊だけじゃないんだ。家や会社や学校すべて管理された自由のない世界は戦場なんだ。だから戦線離脱も自殺も戦死だ。生きる、生きてやる。生きてる限りは俺は闘うと自分に決めたんだ。橋の上で、そう云う大人になってやると決めたんだ。そのときに捕まってしまったが。人生は教えられるんじゃなく身体からだで覚え込ますんだと悟った」

 食事は終わっておばさんは当に食器を片付けていた。おじさんもそれに合わせて珈琲を煎れていた。

 今日はいつになく話が弾んだのねとおばさんはオーダーメイドの珈琲を持って来てくれた。奥ではおじさんが使い終わった年季の入ったサイフォンを磨きながら目礼をした。

 彼は爽やかな酸味と甘みのあるモカで、加納は強い酸味と苦みのバランスが良いキリマンジャロだった。ここにも個性が出ていた。仕事に追われる日々が続くとこれが二人の至福のひとときになる時もあった。今日は長い連休明けに終止符を打ち、仕事モードに切り替える一服になった。

 ここで木下が語ったのは彼が子供の頃に染み付いた「このまま何もしないでボオーとしていたい」だった。これには親も先生にもこっぴどく説教された。努力していっぱしの人間になれと口やかましく言われた。釈迦じゃないけれど彼は万引きで世間を追われて三日間、菩提樹ならぬ橋の袂に座り続けて悟りを拓いた。寺の住職が訊けばそんなバカなと卒倒しそうだった。孤高の中に身を置くより、大衆の面前に於ける恥を、かなぐり捨てる修行が俗世界には合っている気が彼はした。

 今日は木下と云う男はその真髄を加納に語ってくれた。それは彼なりに突然訪れた亡き父の代襲人に対する見解を言って、降りかかった困難に対して初めて木下が語ってくれた。彼が大きく大人へ脱皮した菩提樹ならず橋の袂での悟りは加納に大いに寄与させ、迷いを払拭させた木下の存在のありがたみをつくづく知らされた。 

 二人は昼休みを終えて戦場へ戻った。

 

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