第426話

 去年と何ひとつ変わらない姿で、お母さんはそこにいた。

「今年も来たよ。櫻子」

 わたしたちは黙祷とともに手を合わせ、お掃除に取り掛かる。

「麗奈ちゃん、スカートに気を付けないと……」

「慣れてるから平気よ。響希こそ、そんなに慌てないで」

 水を撒いて、墓石を磨いて……。

 お掃除が一段落ところで、わたしたちは墓前にお花をお供えした。

「お酒じゃないんですか?」

「櫻子は飲まなかったからね。お茶で」

 静かな雰囲気の中、お線香のにおいが漂い始める。

 お母さんが亡くなったのはもう何年も前だから、パパが悲しむ姿もなかった。それでも故人の冥福を祈ろうという静謐さが、わたしたちの口数を少なくするの。

 不意に麗奈ちゃんの唇が沈黙を破った。

「響希は憶えてるの? ピアニストのお母さんのこと」

 間を置くように、わたしは夏の青空を仰ぐ。

「どう……かな。憶えてるような、憶えてないような……」

 わたしの記憶の中に『お母さん』はいた。でも、それは横顔だったり、後ろ姿だったりして――ほかには何も思い出せない。

 それが娘として薄情な気もして、小さな罪悪感に駆られる。

 そんなわたしを見かねたようにパパが囁いた。

「憶えてるさ。響希はちゃんと」

「……パパ?」

 お墓を見詰めるパパの横顔や後ろ姿は、どことなく記憶の中のお母さんと似てる。

「響希が気付いてないだけさ。今だってピアノは好きだろう?」

「うん。弾くのは好き、だけど……」

 柔らかい風が吹き抜け、お線香のにおいを霧散させた。

 麗奈ちゃんは神妙な面持ちで手を合わせてる。

「……ふう。私も勝手に押しかけたりして、よかったのかしら……」

「麗奈ちゃんなら構わないさ。櫻子も知ってるんだし」

 その長い髪が風に煽られ、わたしの鼻先をくすぐった。わたしはふと、麗奈ちゃんの清楚な姿にお母さんの面影を見つける。

「麗奈ちゃんも少し弾けるよね? ピアノ」

「本当に少しだけよ。小さい頃、響希に教えてもらった分にはね」

「じゃあ、この曲は?」

 今度こそという期待を胸に、わたしは『WHITE』のメロディーを口ずさんだ。

 青空のもと、まだ詞のない歌声が響き渡る。

 だけど、そのメロディーは途中まで。『WHITE』の楽譜は後半が真っ白だから、これ以上は歌おうにも歌えなかった。

「憶えてるでしょ? 麗奈ちゃん。ほら、わたしと一緒に作ってた曲だよ」

 その続きが知りたくて、前のめりになる。

 けれども麗奈ちゃんは視線を落とし、かぶりを振った。

「……やっぱり知らないわ。とても素敵な曲だとは思うけど……」

 幼い頃の思い出がセピア色に染まって、遠のく。

 どうして……?

 その言葉をわたしはかろうじて飲み込んだ。ここで麗奈ちゃんを責めても、わたしの我侭にしかならないって、わかってるから。

「パパも知らないんだよね?」

「ああ。でも――」

 わたしと同じ青空を見上げ、パパは物憂げな笑みを浮かべる。

「音楽を続けていれば、きっと続きが見つかるとも」

 唯一の手掛かりは、あの頃から弾いてるピアノだけ。それを信じて、わたしはこれからも鍵盤と向きあうしかないんだ。

 忘れかけた記憶を、色褪せた思い出を取り戻すために。

 『WHITE』を求めて。

「夏は頑張るね。えぇと……お母さん」

 わたしの隣でパパと麗奈ちゃんが微笑んだ。


                  ☆


 S女子学園は二学期制だけど、定期試験は年に五回あるの。

 一学期の中間(五月)、期末(七月)、二学期の中間(十月)、期末(十二月)、それから年度末(三月)ってふうにね。

 四回だと試験の範囲が広くなりすぎちゃうから、五回にしたんだとか。

 ちなみに進級の合否は一学期の中間~二学期の期末で決まり、年度末のは実力テストに近い、とのこと。じゃあ年度末の試験は何なんだろ?

 そして今は七月、夏の暑さも本番に差し掛かってた。無慈悲な期末試験から一夜明け、わたしたちは解放感に酔いしれる。

「ん~っ! やっと夏休みだね、響希チャン」

「律夏ちゃんってば、気が早いなあ。まだ水泳大会が残ってるのに」

「プールで泳ぐだけじゃん。楽勝、楽勝」

 試験の直後というせいもあり、あってないような授業を聞き流しつつ、放課後はブラスバンド部の部室(音楽準備室)へ。

 ところが足を踏み入れるや、わたしも律夏ちゃんも絶句。

「……」

 デスクの上で栞ちゃんが力なく突っ伏してたの。

「し、栞ちゃんっ?」

「あっちゃ~。ダウンしてるっぽいね、これ」

 生温い空気がこもってるから、一瞬、熱中症かと焦っちゃった。わたしたちは窓を全開にして、気休め程度のものとはいえ、小さな卓上扇風機をまわす。

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