第396話
音楽家として大成したゆえに、長瀬宗太郎には葛藤があった。
大切なひとり娘の響希にも音楽を楽しんで欲しい。しかし父親が有名な音楽家だからといって、音楽の道に進んで欲しくはない。
だから、響希には今まで自分の名声を誤魔化してきた。
「結婚して家を出るまで、僕の傍でピアノを弾いてくれれば、と……」
「そいつは父親の我侭だよ。宗太郎」
しかし今、響希は音楽の世界へ巣立とうとしている。それは父親として喜ばしい反面、音楽家としては複雑だった。
キーボードを購入するにあたって、響希には『音楽活動において長瀬宗太郎の名前は出さないこと』と条件をつけている。
『うん、わかった。でもどうして? パパ』
『響希の演奏をちゃんと聴いてもらうためだよ』
それほどに、長瀬宗太郎の名には強烈なインパクトがあった。この親子関係が明るみに出ようものなら、天城響希は『長瀬宗太郎の娘』としてデビューすることになる。
むしろ、その形でデビューせざるを得ないだろう。
長瀬宗太郎の娘なのだから当然、響希にも音楽の才能がある――と。
けれども、この論法が宗太郎は気に入らなかった。才能において、血筋ほどあてにならないものはない、とさえ思っている。
「響希に才能があるかどうかなんて、わからないじゃないか」
「……そうだな」
信一は宗太郎の注文を待たず、枝豆を差し出した。アルコールの度数が強い酒だけでは悪酔いするぞ、と親切心を起こしたらしい。
「しかし厳しいな。可愛い娘に才能がない、だって?」
「わからない、と言ったんだ」
宗太郎は溜息交じりにウイスキーを煽った。
確かに娘の響希は幼少期のうちからピアノに触れ、音楽とともに育っている。おかげで音感や演奏のセンスがずば抜けており、宗太郎自身、舌を巻く場面もあった。
しかし、それは『幼い頃から音楽が身近にあった』成果であり、決して響希の才能を証明するものではない。仮に平凡な人間でも、物心のついた頃から音楽を学んでいれば、それなりのセンスは修得できるはず。
逆に中学生くらいで音楽を始めようと、プロの世界で通用する者もいた。こういった人間こそ『才能がある』と言えるのではないか、と宗太郎は考える。
「あの子に本当に才能があるなら、それに越したことはないんだけどねえ……」
最悪のパターンは、ろくな才能もないのに娘が業界入りしてしまうこと。
しかも響希の音楽活動には必ず『長瀬宗太郎』の名がついてまわる。天城響希が表舞台に立つようになれば、マスコミは見逃さないだろう。
父親の名前に振りまわされるのではないか。
世間から実力以上のパフォーマンスを期待されるのではないか。
そうなったら、響希は苦しむ。音楽を重荷に感じ、逃げ出したくもなるはず。
「僕は響希に心から楽しんで欲しいんだよ。音楽を」
「よく言ってたな、お前。音楽は『音を楽しむ』ものだと」
「ああ。そういうことさ」
苦難の末に誕生する一曲は素晴らしい、それは宗太郎も認めていた。
だが苦しいだけ、辛いだけの音楽は、もはや音楽ではないと確信もしている。
酒に酔うにつれ、妻のことを思い出さずにいられなかった。
「同じことを僕は……櫻子には言えなかったよ」
グラスの中で氷がからんと音を立てる。
妻の櫻子は病の身体を押して、ピアノを弾き続けた。
これが私の生き様だから、と。最後の瞬間までピアニストでいたい、と。
それが『苦難の末に誕生する一曲』なのか、『苦しいだけの音楽』なのか、宗太郎にはわからなかった。
ただ、強引にでも止めていれば――と、今でも後悔の念は込みあげる。
「にしても……まさか響希の初ライブが、あのライブハウスだなんてねえ。驚いたよ」
「だろう? 櫻子さんのお導きさ、きっと」
それでも宗太郎は響希の進む先に『運命』を感じていた。
あのライブハウスは、古い劇場を建て替えたもの。その劇場で宗太郎は、ピアニストの櫻子と出会い、恋に落ちた。
そして今、同じ場所で娘の響希が活躍している。
そのことは純粋に嬉しかった。まるで若き日の妻と再会できたような気がして。
「父親なら応援してやれよ、宗太郎」
馴染みの信一に発破を掛けられ、宗太郎は破顔した。
「……ああ。響希の演奏が聴けるんだからね」
妻のピアノを聴くことは叶わずとも。娘の音楽は聴けるのだから。
「とりあえず、VCプロの社長さんとも話してみるつもりだよ。向こうはまだ、響希が僕の娘とは知らないだろうしね」
「VCプロか……調べてみたんだが、本当にアイドル事務所らしいな」
ふたりの父親は真剣な面持ちで口を揃える。
「ガールズバンドはいいけど、アイドルはなあ……」
「同感だ。男と握手なんかさせられるか」
今夜の酒は苦かった。
☆
M女子学園では体育祭の代わりが球技大会なんだって。
そう、球技大会!
クラス対抗でね、全学年が競技ごとにトーナメントで競いあうの。わたしと律夏ちゃんはバスケットボールに出場し、一回戦は二年生を相手に快勝しちゃった。
その一方で、バレーボールに出場したはずの栞ちゃんは、真っ白に燃え尽きてる。廊下の隅っこで蹲ってるから、わたしも律夏ちゃんもぎょっとした。
「どうして球技大会なんでしょうか……うぅ。普通の運動会なら、まだしも……」
栞ちゃんは別段、運動音痴ってわけでもないらしい(二年二組からの情報)。でも球技だと、どうしてもチームプレイになるでしょ?
ミスをして、チームのみんなに迷惑を掛かたり。
サポートしようにも、自分が手を出すべきか判断できなかったり。
そんな心理戦を強いられた末に、チームは敗退し、栞ちゃんはすっかり疲弊してた。
「球技が存在することは構いません。ただ、私とは無関係であって欲しいんです」
通り掛かった二年二組の先輩が、わたしの肩を叩く。
「ごめんね、天城さん。あとはよろしく」
「はあ……」
その後、栞ちゃんはチームメイトとは一緒に居づらいと、わたしたちの応援へ。
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