第302話
カラオケは前に一度、リカと咲哉の三人で入ったきりだった。いの一番に玲美子さんが曲を入れ、意気揚々とマイクを握り締める。
「わたしは飲み物を淹れてくるわ。杏ちゃんは何がいいかしら」
「手伝うわ。四人分だもの」
「ちょっと、ちょっと! 私の歌が聴けないわけ?」
矢内さんは事務所へ戻ったわ。帰りにまた迎えに来てくれるんですって。
「自分の歌は歌わないんですか?」
「まっさかー。カラオケよ? そうだわ、カナちゃんはRED・EYE歌ってね」
さすが玲美子さん、歌が上手いなんてレベルじゃなかった。
NOAHの『Rising・Dance』もお手本のように歌いあげ、わたしたちの度肝を抜くのよ。奏は口角を引き攣らせる。
「あたしらの練習って……何なの?」
「つ、次は咲哉の番よ? ほら」
そして咲哉の破天荒な歌声に、玲美子さんは笑い転げた。
「あははははっ! すっ、すごいじゃないの、咲哉ちゃん! サイッコー!」
大先輩を抱腹絶倒させながら、咲哉は平然と微笑む。
「好きな曲だから、つい力が入っちゃったみたいね」
「今のは曲への冒涜よ、冒涜。RED・EYEはこう歌うの、貸して」
次は奏の渋い歌声が響き渡った。
雄々しさと色気を兼ね備えた、独特の声音ね。男の子が歌ってるような力強さに、女の子の繊細さが見え隠れする。むしろ中性的というべきかしら。
「次は杏よ。はい」
「え? 歌わなくっちゃだめなの?」
「当然でしょ。杏ちゃんの歌も、お姉さんに聴かせなさいっ」
リモコンを渡され、わたしはきょとんとする。
順番はまわってきたものの、カラオケの選曲って基準がわからないのよね。とりあえず歌える曲を……と思い、『湖の瑠璃』をエントリーする。
「杏さあ~。それ、こっちは耳にタコができるくらい、聴いてるんだけど」
「い、いいでしょう? 好きな歌なんだから」
わたしやNOAHとは一番付き合いの長い曲だもの。
思えば、ママを真似せずに歌ったのは、この『湖の瑠璃』が初めて。ドラマの版権が絡んで、自由に歌えないのが悔やまれた。
歌い終えると、玲美子さんがほくそ笑む。
「やるわねぇ。さすがは明松屋千夜の娘といったところ?」
「ええ、まあ……」
その賛辞は好きじゃなかった。
どんなに上手に歌えても、ママの七光りでしかないから。
「咲哉ちゃん、もう一曲! もう一曲歌って~!」
「うふふっ! 楽しいわね、カラオケって」
「あんたと一緒のカラオケは普通じゃないけどね……」
その後も咲哉が歌うたび、みんなでひっくり返りながら、ラスト一曲となった。玲美子さんが思い出したように曲を入力し、割り込む。
「最後はこれよ」
その聴き慣れたイントロに、わたしははっとした。
――『蒼き海のストラトス』だったのよ。
「れ、玲美子さん……?」
「あなたのお母さんの代表曲なんでしょ? いいから、いいから」
この曲は音域の高さがネックとなって、まともに歌えるひとが少ないの。CDは山ほど売れても、カラオケで選曲されるのは稀だと、当時は話題になったわ。
そのはずが、玲美子さんの熱唱がわたしを揺さぶる。
奏も目を見張ってた。
「嘘でしょ……?」
ママとはまるで違ってる。ブレスのタイミングも、声の伸びも。
でも目が離せないように、耳が離せない。
玲美子さんは声高らかにサビを駆け抜けると、決めポーズで締め括った。
「どうっ? 私の『蒼き海のストラトス』も、なかなかのものでしょう。明松屋千夜にも聴かせてあげたいくらいだわ」
奏と咲哉は拍手を惜しまず、称賛の言葉を連発する。
「負けたわ……。この歌唱力があってこその、観音玲美子なのね」
「結依ちゃんももっと教えてもらえばいいのに。ねえ?」
でも、わたしは拍手のひとつさえできなかった。
おそらく奏よりも敗北を感じてる。ママのものとは印象が異なる、まったく新しい『蒼き海のストラトス』を聴かされたせいで。
ママのように歌ってるだけじゃ、ママの真似をしてるだけじゃ、絶対に歌えない。
それを、玲美子さんはわたしの目の前でやってのけたのよ。
「あー、お腹空いたっ。ラーメン食べて帰りましょうか、ラーメン」
「結依は聡子さんとカレー食べて、帰るって」
「どっちの勝ちかしら」
奏や咲哉の言葉なんて、もう耳に入らなかった。
何を食べたのか、何を話したのかも、よく覚えてない。
ただ去り際、玲美子さんはわたしのオデコをつついて、囁いた。
『あなただったら、どう歌う? あの曲』
答えられなかったわ。ママと同じように歌うことしか、頭になかったんだもの。
でも玲美子さんは『蒼き海のストラトス』を、ママよりも躍動的に歌った。技術はあって当然なのよ。そのうえで、どんなふうに歌うのか。
わたしは己の未熟さを痛感するとともに、今までになくママの歌に慄いてしまった。
楽譜通りに歌うだけじゃ、だめ。きっとママに呆れられちゃうわ。
はこぶね荘へは先に結依と聡子さんが帰ってた。
「おかえりなさい、杏さん! 咲哉ちゃん、奏ちゃんも」
結依の朗らかな笑みに迎えられ、不愛想な奏も表情を緩める。
「ただいま。そっちは撮影、どうだったのよ」
「えへへ……位置取りがおかしいって、監督さんに怒られちゃった」
「あら? 結依ちゃん、カメラは苦手?」
聡子さんは干しっ放しの洗濯物をまとめてた。
「お風呂、湧いてますよー」
わたしは我に返り、聡子さんのフォローに入る。
「手伝います」
「大丈夫ですよ。もう済みましたので。……杏さん?」
「あ、いえ……何でもありません」
だめだわ、まだ調子が狂ってるみたい。
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