第300話
明日にはリカが海外ロケへ向け、出発する。
「杏ぅー? 入っていい?」
「どうぞ」
その夜、リカはふらっとわたしのお部屋を訪ねてきた。
ばつが悪そうに照れ笑いを浮かべ、もじもじと切り出すの。
「この前はありがと……その、アタシの話、ちゃんと聞いてくれて。もう少しで、結依と喧嘩別れになってたところだったからさあ」
「気にしないで。わたしもあなたの本音が聞けて、よかったもの」
わたしはデスクから離れ、ベッドのほうへ腰を降ろした。隣にリカも続く。
「いよいよ明日からね。頑張って」
「もっちろん。今よりビッグになって帰ってくるから」
「……あなた、本当に英語が得意なの?」
リカとはしばらくのお別れね。
NOAHは当面、メンバーの中で最大のファン数を誇る、玄武リカを欠くことになる。咲哉が加入したとはいえ、リカの穴はなかなか埋まるものじゃないわ。
全国ツアーの第一コンサートも、おそらくリカ抜きになる。夏の本番を前にして、この戦力ダウンは痛いわね。
それでも結依はリカの背中を押した。
わたしたちもリカに頑張って欲しくて、別行動を受け入れたの。
「アタシがいない間はNOAHのこと、よろしくね」
「言われなくても。咲哉や奏もいるんだから、心配しないで」
「あ……そうそう」
リカはケータイを手に取り、異様な写真を見せつけた。
袴姿の男の子が土下座……これ、既視感がある。
「誰なの?」
「弟。杏のメイドの写真見せたら、何が何でも欲しいって、この有様でねー。あっ、渡したりはしてないから、安心してよ」
わたしのほうもケータイを立ちあげ、弟の土下座をリカに披露した。
「同じく。うちの弟もリカのメイドをご所望だったわ」
「ウワァ」
わたしとリカの溜息が重なる。
「はあ……どうしよっか、こいつら」
「海外遠征にでも行ってくれたらいいのに。一年くらい……」
とりあえず、弟たちの雄姿はパノッパラインにでも投下しておくことに。
『あははははは! ブザマねー!』
刹那の大笑いから始まり、
『げええっ! これが玄武リカの弟ぉ?』
『こーやって、お姉ちゃんにおねだりするんだー?』
パティシェルの面々に袋叩きにされ、
『わたしの妹はこんな感じよ。結依ちゃんの大ファンなの』
咲哉の妹がついに全貌を現し、声援はひとつになった。
『か~わ~い~い~!』
この賑やかな雰囲気、好きだわ。
楽しい時に一緒だから、つらい時を分かちあうことができるの。
パノッパラインの場を借りて、リカがSPIRALとパティシェルにお別れの挨拶。
『そんじゃー海の向こうまでロケに行ってくるから! 夏に会おーねっ』
『まじかよ? こっちは聞ーてないぞ』
『いってらっしゃい、リカ。SPIRALも応援してるわ』
わたしとリカは顔をあげ、一緒に笑った。
☆
VCプロの社長室にて、井上さんに意志を伝える。
「歌います」
明松屋千夜の『蒼き海のストラトス』を、ね。
リカや結依のひたむきな情熱を目の当たりにして、わたしだけ二の足を踏んでいられないもの。わたしが明松屋杏である以上、この歌は避けて通れないのだから。
井上さんは眉を顰めた。
「お母さんが倒れたことを気にしてるかしら」
「気にしてない……と言ったら、嘘になりますけど。自分で考えて決めました」
そうよ、確かに嘘になるわ。
ママが倒れたからこそ、早く娘の晴れ舞台を見せてあげなくちゃって、思ったの。わたしの『蒼き海のストラトス』は、誰よりママに聴いて欲しい。
けど自信はなかった。
病室でママがさり気なく歌った、あの曲――あれには逆立ちしたって、敵わない。
ママは深い愛情を込めて『蒼き海のストラトス』を歌えるのよ。一方で、わたしは少なからず劣等感を抱いて、あの名曲と対峙する。
技術的にも当然、ママのほうが上。
今のわたしには――『蒼き海のストラトス』は正直、荷が重かった。
「じゃあ、レッスンのスケジュールに組み込んでおくわね。頑張りなさい」
「はい。それでは失礼します」
井上さんに一礼し、社長室をあとにする。
聡子さんは合流するや、ガッツポーズで励ましてくれた。
「お母さんの歌を歌うそうですね、杏さん。難しい曲とは思いますが、稀代の歌姫こと明松屋杏なら大丈夫ですよ。張りきっていきましょう!」
「歌姫だなんて……そんな」
褒められるほど、わたしはかえって自信をなくす。
応援の勢いが空振りしたせいか、聡子さんは苦笑いを浮かべた。
「やっぱり怖いんですか? お母さんの歌が」
「え……?」
誰にも話したことのないはずの本心を見透かされ、わたしはぎくりとする。
「NOAHのメンバーでは杏さん、あなたが一番、プレッシャーが大きいでしょうから」
結依は親や周囲に期待されてるわけじゃなかった。
リカのところは放任主義だし、そもそも、あの子は周りに振りまわされたりしないわ。まだ奏のほうが、ご両親の反対を押しきっただけに、結果を求められてる。
「咲哉もファッション界からの重圧はすごそうですけど……」
「そうですね。でも咲哉さんの場合は、誰と比べられるわけでもありません」
咲哉は純粋に自分の実力ひとつで勝負できた。
だけど、明松屋杏は違うの。明松屋千夜の名を背負い、オペラ界のみならず、世間からも多大な期待を寄せられてる。
去年まったく歌えなくなったのは、その重圧のせいもあったんでしょうね。
ママのようにならなくちゃ。ママのように歌わなくちゃ、と。
結依に手を引かれるまで――わたしはずっと迷路の中を彷徨っていた。
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