第296話

 お昼休みは今日も教室で、刹那とランチ。

「大変だったのね……でも、あとは経過を見るだけでしょ?」

「生きた心地がしなかったわ。ほんと、心臓が止まるかと思ったもの」

 無暗に話すことじゃないと思いつつも、わたしは刹那に昨日のことを打ち明けていた。

「結依たちには内緒にしててもらえるかしら」

「わかってるわよ。済んだことで気を揉ませたくないんでしょう」

 相手が刹那だから話せた部分はある。

 もちろん声のボリュームは下げてるわよ。L女に聞き耳を立てるようなレディーはいないにしても、やっぱり聞かせられる内容じゃないもの。

「これを機に、千夜さんもお仕事の量を見なおすとか、してくれるといいわね」

「ええ、本当に……。パパもしばらくは早めに帰るって」

 確かにママは近年、働き詰めの傾向にあった。松明屋千夜としてオペラの舞台に立ち、美声を高らかに響かせてきたの。

 誰もが元気だと思ってた。娘のわたしだって気付かなかった。

 だけど、長年の激務は身体にかなりの負担を与えていたのよ。今回は胃潰瘍のひとつで済んだものの、もし心筋梗塞や脳卒中だったら――。

「弟くん、ご飯はどうしてるの?」

「家政婦さんがいるから大丈夫よ。本当はわたしがやるべきなんでしょうけど」

 なのに、わたしは自分のことばかりで。はこぶね荘に引っ越してからは、ろくに電話もしないで、好き勝手していたの。

 ママが倒れても、ICUの前でおろおろすることしかできず。憧れのママに何もしてあげられなかった自分が、悔しくってならない。

 気落ちするわたしを見かね、刹那は優しい言葉を掛けてくれた。

「あんまり思い詰めちゃだめよ? 杏。責任を取ろうとか思わないで」

 わたしのせいじゃない……か。

 ストレス性の病気だから、わたしがママに心理的な負担を掛けてしまった可能性も、一応は考えられる。でも、そんなこと言い出したら、きりがないものね。

 わたしは顔をあげ、笑みを綻ばせる。

「ありがとう、刹那。結依があなたに惹かれちゃうの、わかる気がするわ」

「わたしとしては、もっと仲良くなりたいのよ。杏ともね」

 事務所の垣根を越えて、NOAHとSPIRALの交流は穏やかに続いてた。刹那以外のメンバーとは、それほど接点もないんだけど。

「SPIRALも忙しいんでしょう? 今年の夏は」

「今年も、よ。まあNOAHみたいに、曲をかき集めてるわけでもないし……」

 さすがSPIRAL、アイドルフェスティバルには去年も出場してるだけあって、余裕を見せてくれるわね。

「パティシェルは全国各地の遊園地で、イベントを連発ですって。パティシェルのマネージャーが入社二年目にしては、かなりの手練れらしいのよ」

「うちのマネージャーの元同僚よ、そのひと。あと、周防志岐さんの恋人で」

 お互い漏洩にならない範疇で、情報を交換しておく。

 SPIRALやパティシェルの動向が掴めたからって、NOAHの利益に直結はしないわよ? でも、参考にできるアイデアが転がってるかもしれない。

 刹那が愛用のタロットカードを取り出す。

「実は少し気掛かりなことがあるのよ。この夏について占ってみたら、意味深な結果が出てきたっていうのかしら」

 カードの幻想的な絵柄を見て、思い出した。

 刹那はタロット占いが得意で、わたしも占ってもらったことがあるの。

 その時は回答に『近しいひと』の『病気』と出た。つまりミュージックプラネットで倒れた結依のことであり、昨日のママのことでもある……?

「わたし、占いは信じないほうなんだけど……あなたの話は聞いておきたいわ」

「ありがと。でね、今もっともアイフェスの覇権に近いのが――」

 刹那は声を潜め、わたしは耳を澄ませる。

「観音玲美子」

 その答えには驚いたけど、納得もした。

 昨今のアイドルは『グループ』が主流なのよ。現にNOAHは5人、SPIRALは4人で編成されてるわ。パティシェルの3人が少ないくらい。

 にもかかわらず、玲美子さんはソロでも抜群の存在感を誇ってた。

 声質だけに頼らない歌唱力と、容姿端麗なビジュアル性。パフォーマンスのセンスにも優れ、映画やドラマでは数々の演技賞を受賞してる。

 しかも声優業へ復帰よ? アニメ業界では早くも『ツンデレの女王』と絶賛され、不動の地位を獲得しつつあるの。

 その強さの秘訣には心当たりがあった。

 玲美子さんはどん底から這いあがり、逆境を跳ね除けてきたから。

 挫折を乗り越えたからこそ、今の観音玲美子がいるのよ。

 刹那が聞き慣れない名前を口ずさむ。

「杏はキルケゴールという哲学者を知ってるかしら」

「ごめんなさい。初耳だわ」

「ニーチェに大きな影響を与えた人物でね。簡単にいうと……挫折を知り、それを乗り越えてこそ、人間は成長すると説いたわけ」

 ニーチェなら有名だから、触り程度には知ってた。

「挫折を……」

「わたしたちと観音玲美子の違いは、そこね。あのひとは今年の夏も輝くわ」

 SPIRALの有栖川刹那さえ、玲美子さんには畏怖の念を抱いてる。

「で……占いの結果よ。この夏、わたしたちアイドルを待ち構えてるのは、分裂」

 意味深どころか不吉な予言だった。

 わたしはごくりと息を飲む。

「それって……ユニットが解散する、とか?」

「分裂といっても、あくまで比喩よ。でも、ソロの観音玲美子がひとり勝ちして、わたしたちが敗れるのなら……人数の多いグループほど不利かもね」

 さらに刹那は別の予言を囁いた。

「いくつかアイドルユニットを占ってみたんだけど、文句なしの絶好調と出たのは、パティシェルだったわ。実際、あの子たちは今どんどん伸びてるでしょう?」

 考えてみれば、当たり前のことだわ。

 本気で頑張ってるのは、わたしたちNOAHだけじゃないのよ。ありとあらゆるアイドルユニットが、この夏に青春を懸け、切磋琢磨しているのだから。

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