第295話
「なあに、心配いりませんよ。ただの胃潰瘍です」
医者のお爺さんにけろっと診断され、わたしたち一家は唖然とした。
わたしも、慎吾も、パパも、呆けた顔で目を白黒させる。
「あの、先生……妻の容態は?」
「たくさん血を吐かれたので、びっくりしたんでしょうなあ。しばらくは経過を見て、検査もしますが。今は麻酔が効いて、眠っておられます」
一息のうちに身体中の力が抜けていった。
慎吾がぼやく。
「はあ~っ。吐血したなんて言われっから、一時はどうなることかと……」
「では先生、しばらくは入院ということで?」
「そうですなぁ」
助かったんだわ、ママ……。
胃潰瘍がどんな病気かはわからないけど、先生の説明を聞くうち、ほっとする。
「激務が続いて、限界に達したんでしょう。千夜さんのように精力的なかたには、よくあることなんですよ。お酒はあまりお召しにならないという話ですし――」
わたしたちは先生に頭をさげ、診察室をあとにした。
ロビーで待ってくれてた咲哉と聡子さんが、腰をあげる。
「杏さん! お母さんは?」
「もう大丈夫だそうです。ストレス性の胃潰瘍だったみたいで……」
あれだけ大騒ぎしちゃったものだから、ばつが悪い。
徐々に落ち着き、頭が働くようになってきた。
「結依たちにはまだ?」
「伝えてないわ。混乱させても、と思って」
ほかのメンバーは寮まで、矢内さんに送ってもらったとのこと。
「明松屋さん。よろしければ、私のほうで息子さんも家までお送りましょうか?」
「じゃあ、お願いできますか? 僕はまだ帰れそうにありませんので」
パパは病院に残り、わたしは慎吾を連れて駐車場へ。
雨こそ降ってないものの、夜空にはどんよりと厚い雲が垂れ込めてた。まだまだ梅雨は明けそうにないわね。
「あなたが杏ちゃんの弟くんね。リカちゃんの弟と一緒に、よく話題になるわ」
「は、はあ……そうっすか」
弟の慎吾は別段、九櫛咲哉には照れもせず。
聡子さんの車がライトを点け、ゆっくりと走り出す。
「本当に無事でよかったですね、千夜さん。でも、それだけご無理をされていたんでしょう。結依さんの件もありますし、他人事ではありませんよ? 杏さん、咲哉さん」
マネージャーの忠告が今夜は重かった。
「はい……肝に銘じておきます」
「え? 御前結依がどうかしたの、姉さん」
空気の読めない弟には、咲哉がしっかりと釘を刺す。
「今日のことは絶~っ対に学校で喋ったりしちゃだめよ? 弟くん。あと、結依ちゃんはわたしたちの天使なの。呼び捨てにしないでちょうだい」
にっこりと穏やかな笑みで……。
何かを感じ取ったらしい慎吾が怯える。
「ね、姉さん……このひと、なんか怖いんだけど」
「咲哉には逆らわないことね」
まったく……美少女モデルを前にして、デリカシーの欠片もないんだから。
病院では電源を切ってたケータイを立ちあげると、共有ラインにメンバーから暢気なコメントが届いてる。
『矢内さんにラーメン奢ってもらっちゃったー』
『杏と咲哉は何してんの? 聡子さんのお忍びデートの監視?』
『洋服の勉強会でもしてんじゃない?』
ママは助かったんだって、やっと現実感が出てきた。
わたしは声のトーンを落とす。
「聡子さん、咲哉も。あの……ママが倒れたこと、結依たちには内緒にしてもらえませんか? もう終わったことで、この時期に心配を掛けたくないんです」
聡子さんは即答した。
「杏さんがそう仰るなら、黙っておきますよ」
「わたしも協力するわ。結依ちゃんは動揺しそうだし……」
わかってもらえたみたいね。別に、結依たちに嘘をつくわけじゃないもの。
今は夏を控えた、大事な時期。ママは無事だったんだから、このことで結依たちに気遣わせるような真似は避けたかった。
やがて明松屋家へ到着し、慎吾だけ降りる。
「ありがとうございました。えーと……聡子さん、でしたっけ」
「気にしないでください」
姉として愉快な悪戯を思いついた。
「そうだわ。慎吾、こういうのは好きなの?」
わたしは車の窓を開け、ケータイで、ある一枚の写真を弟に見せびらかす。
それは玄武リカのメイドスタイル。しかもミニスカートとニーソックスで、絶対領域とやらを強調した秘蔵の一枚だった。
慎吾は俄かに目の色を変え、鼻から息を噴き出す。
「ねねっね、姉さん? もっとよく見せてくれよ! なんでメイドっ?」
「もう見たでしょう? じゃあ、寮に帰るから」
「待って、待って、待って!」
私の弟は玄武リカの大ファンなのよ。そして、今後も公開されることのないリカのお宝ショットを、わたしが持ってたものだから。
路上にもかかわらず、慎吾はたった一枚の写真のために這い蹲った。
「姉さん……いやっ、お姉様! どうか、どうかその写真を僕にください!」
弟の土下座を前にして、わたしは思わずシャッターを切る。
「うふふ、杏ちゃんったら」
「発進しますよー。慎吾くんは離れてくださいね」
「ちょっ? 姉さん、姉さあ~ん!」
弟の慟哭は近所迷惑だった。
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