第193話
NOAHのファーストライブも無事に終わって。
次は来月のセカンドライブに向け、みんなが慌ただしく動き出す。
ステージ衣装の製作を受け持ってるわたしも当然、そのひとりよ。発注先の工房に出向き、指定書をもとに作業の進捗を確かめる。
「来月はまだ上の法被を外す予定はないらしいわ」
「ふぅーん。でも中身を作っとかないことには、進められないし……」
芸能学校の面々も何人かいるから、気心も知れてた。VCプロの仲介もあって、実習を兼ね、ここでアルバイトをすることにしたんですって。
おかげで、安心してステージ衣装を任せられる。
「一着だけでも仕上がり次第、連絡するから。確認に来てね」
「うん、お願い。頼りにしてるわ」
本当は手伝いたいところだけど……わたしには『やるべきこと』があった。
VCプロと余所の行き来は、矢内さんの車に乗せてもらう。
「お待たせしました、矢内さん」
「オーケー」
この矢内さんは先日までNOAHのマネージャーを務めていたそうなの。それを若手のホープ(聡子さんのことね)に引き継ぎ、当面はわたしを担当してもらっていた。
どことなくマーベラスプロの菊池さんと雰囲気が似てるわ。男のひとでも歳が離れてるから、こっちも構えなくて済む。
その薬指には金色のリングがきらり。
「矢内さんって結婚してらっしゃるんですね」
「これかい? まだ婚約……でね。落ち着いたらと思ってるんだけど、なかなか」
知り合って日の浅い相手とも、こんなふうに世間話ができるくらい、わたしの心は健全さを取り戻してた。荒れてた時期のことを思い出すと、ちょっと恥ずかしい。
VCプロに戻ったら、井上社長に報告へ。
「そっちのほうは順調みたいね。引き続き頼むわよ、咲哉」
井上さんは満足げにやにさがると、改めてこちらに振り向いた。社長としての理知的な、それでいて姉のように温かな表情が、わたしに一瞥をくれる。
「ところで……あなたの今後の活動について、ひとつ提案があるのよ」
来るべき時が来たようね。わたしはまっすぐに井上さんを見詰め、先手で答える。
「NOAHのメンバーに、というお話ですか?」
「あら。察しがいいじゃないの。奏にでも聞いたのかしら」
井上さんは肩を竦めつつ、その思惑を打ち明けた。
「明松屋杏、玄武リカ、そして九櫛咲哉……あなたにとっては実に二年ぶりの復帰となる話ね。あなたたち三人と結依、奏を合わせて、NOAHは全員と考えてるの」
結依ちゃんと、一時はメジャーデビュー寸前だった奏ちゃんはともかくとして。
すでに知名度の高い明松屋杏、玄武リカに加え、NOAHはさらに九櫛咲哉という強力なカードを手に入れつつある。
「三月に朱鷺宮奏をお披露目して……あなたは少し間を空けて、五月の下旬にアイドルチャンネルのオンエアで、という段取りよ」
ひとまずわたしは無難な質問で井上さんを揺さぶってみた。
「あの、どうして五月の末まで?」
「夏の全国ツアーと、ひいてはアイドルフェスティバルを見据えて、ね。新メンバーの加入は大きなアピールになるんだから、有効活用すべきでしょう?」
これは社長らしい戦略よね。
ファンの反応が薄いからと焦って、手持ちのカードを立て続けに切っても、瞬間的に最大風速が吹くだけ。それこそカードの無駄遣いになりかねないわ。
ちゃんとユーザーがコンテンツに馴染むのを待ってから、早すぎず遅すぎず、とっておきの刺激を与える――井上さんはこれを意識し、実践しようとしていた。
言葉にするのは簡単だけど、難しいことよ? でも、少なくともVCプロはカードの切り方を心得てる。
井上さんは両手の指を編み合わせて、そこに顎を乗せた。
「あなたにとっても有益な話だと思うわよ。どう? NOAHで頑張ってみない?」
切れ長の双眸がわたしの覚悟を問いただそうとする。
九櫛咲哉をアイドルとして起用するつもりだってことは、前々から聞かされてた。そのために歌の練習をして、あれほど深刻だった音痴も、随分と矯正できたわ。
そのレッスンで奏ちゃんや杏ちゃんに教えてもらったのも、ゆくゆくはわたしがNOAHへ加入するのを前提にしてのこと。社長の井上さんが太鼓判を押すんだから、わたしにはNOAHのメンバーを名乗る資格があった。
「……嫌というわけじゃないんです」
「まだ決心はつかないようね」
わたしの曖昧なお返事に、井上さんは少し落胆の色を覗かせる。
頭ではわかってるのよ。そろそろ行動を起こさないと、九櫛咲哉は本当に『過去のモデル』になってしまうもの。秋のクレハ・コレクションに出場するなら、なおのこと。
でも、そんなわたしの都合のために――。
「結依ちゃんたちの人気……いえ、頑張りに便乗するみたいで……」
コンサートの時の、奏ちゃんの言葉が脳裏をよぎる。
『だからね? あたしはNOAHに入って、とことん暴れてやるつもり。リカや杏の人気に乗っかって? 結構なことじゃないの。存分に『踏み台』にしてあげる』
わたしはそこまで思いきれそうになかった。
奏ちゃんほどには、結依ちゃんやリカちゃんと距離が近くないもの。どうしても遠慮の気持ちが先行しちゃって、今も一歩を踏み出せずにいる。
井上さんは溜息をついた。
「あなたも頑張ったじゃないの。衣装の製作で」
「それは……そうかもしれませんけど」
自分の努力を自分で認めるのは、なんだか恥ずかしいことに思えて、わたしの返答は尻すぼみになる。
「それに、九櫛咲哉の名前がかえって足を引っ張るかもしれないんです。NOAHに『出戻り』なんてイメージがついたら、と思うと……」
「そこは心配いらないわよ。杏やリカだって似たようなものでしょう?」
……本当にそうかしら? 一度『落ち目』とみなされたら、その評価を覆すのは不可能に近いんだもの。九櫛咲哉がNOAHの人気に陰りをもたらす可能性は否めない。
「あとはあなたの気持ちの問題……でしょうね。まあいいわ。五月にはNOAHに加入の方向で、レッスンは受けてもらうから、そのつもりでいてちょうだい」
井上さんはわたしに有無を言わせず、社長の顔でまくし立てた。
「あなたには一度、アイドルの舞台を経験して欲しいの。三月の末にSPIRALのライブでバックダンサー、咲哉ならできるでしょう?」
「ダンスですか……経験はありませんけど」
「経験がないから経験するのよ」
不意に井上さんの口元に笑みが浮かぶ。
「私ったら……口癖みたいなのよ、さっきの。経験がないから経験っていう言葉」
つられて、わたしも少し笑った。
「わかります。モデルのお仕事も、最初はそんな感じでしたから」
「ふふっ。初めてカメラを前にした、あの怖いような感覚……懐かしいわ」
このひとの期待に応えたいっていう気持ちは、確かにある。
「バックダンサーの件、了解しました」
「それと並行して、歌の練習もね。デザイン画のほうはしばらくの間、構想を練るくらいで充分だから」
NOAHへの加入を踏まえて、歌とダンスのレッスン……か。
アイドルになったら、今よりずっと忙しくなるはずよね。
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