第174話

 クレハ・コレクションの続報を待ちながら、VCプロで歌の練習を始める。

 井上さんはわたし、九櫛咲哉をアイドルとして起用することを諦めてないのよ。わたしも復帰するならモデルで、と思ってるし……。

 けど破壊的な音痴を矯正するには、いい機会だと思ったの。

 井上さんからはすでに『とにかく曲を聴きなさい』って指示を受けてる。だから妹に協力してもらって、流行りの邦楽を中心に聴いてた。

 クレハ・コレクションの二次を突破したっていう余裕もあるかもしれないわね。もし三次も突破できたら、担当がついて、今後の展望が一気に開けるんだもの。

 そのためにも二次だけは、二次はきっと――今は不安より期待のほうが大きい。

 そんなことを胸に抱きながら、今日は歌の練習を兼ね、音響スタジオで明松屋杏と会うことに。こちらから自己紹介すると、杏ちゃんは目を丸くした。

「九櫛咲哉……さんって、あのモデルの?」

「呼び捨てで結構よ。わたしもあなたのこと、杏ちゃんって呼ぶから」

 同い年だもの、これでいいわよね。

「さすがファッションモデルね。着てる服からして、もう違う気がするわ」

「まさか。ただの普段着よ」

 黒縁の伊達眼鏡を掛けたら、わたしだってわからなかったりして……うふふ。

「今はお世話になってるかたのブティックで、お手伝いしてるのよ。杏ちゃんもよかったら、ぜひお店に来てちょうだい。サービスするから」

「そ、そう? 洋服のことなんて意識したことないけど……」

 そこまで言って、杏ちゃんは急に慌てだした。

「あっ、違うのよ? 別にあなたのお仕事を軽んじたつもりはなくって……えぇと」

 真面目な優等生タイプみたいね。

「わかってるわよ。怒ったりなんてしないから」

 わたしは確信を込め、杏ちゃんにこそっと耳打ちする。

「だけど……いつまでもお母さんが買ってきたお洋服じゃ、だめ」

 杏ちゃんの顔に緊張が走った。

「……え? わかるの?」

「わたしはプロよ? ふふっ」

 思った通りね。普段着を制服みたいに折り目正しく着てるとか、ほかにも理由はあるけど。一番の理由は『靴』よ。スカートと靴下、靴の親和性が低いの。

 洋服と違い、靴をいくつも持ってる高校生は少ないわ。手入れにも知識が要るから、季節ごとにひとつあればいいほうね。

 だからファッションに関心が薄い女の子ほど、靴を度外視する傾向にあるわけ。

 杏ちゃんのローファーはまさにそれ。さらに服の上下も無難すぎて、冒険心がなければ面白味も薄かった。これは母親か娘のどっちか、あるいは両方が鈍い証拠。

「わたしでよければ、いつでも付き合うから。ショッピングも楽しいわよ、きっと」

「……考えておくわ」

 ばつが悪そうに杏ちゃんは頷いた。

 幼馴染みを初めてブティックへ連れていった時のことを思い出す。薫子ちゃんは結局、わたしほどファッションには興味を持ってくれなかったけど……。

「今日は歌の練習がしたいんでしょう? あなた」

「あら、名前で呼んでくれないの? あ、ん、ず、ちゃ、ん」

「……はいはい。咲哉」

 杏ちゃんは肩を竦め、それまでとは毛色の異なる溜息を漏らした。

「でも……悪いけど、わたし、今は歌う気になれないのよ。自分の歌に自信がなくて」

 その言葉に重々しい含みを感じる。

 あの明松屋杏がどうして――と畳みかけるのは止めた。

 わたしだって、どうしてモデルを引退したのって問い詰められたら、困るもの。

 おそらく彼女は歌手として壁にぶつかり、自信を喪失してた。そうでもないと、わざわざVCプロに入って、アイドル活動を始めるはずがないでしょう?

「話したくないことなら、いいわ。とりあえず今日はわたしの歌を聴いて、アドバイスをくれたら、それで」

「わかったわ。ごめんなさい、勝手なこと言っちゃって……」

 杏ちゃんはキーボードで手頃な童謡を弾いてくれる。

「これに合わせて歌ってみて。いくわよ」

 大きく息を吸い込んで……わたしは躊躇なしに歌い始めた。

「あ~あぁ、あ~!」

 歌ってるうちにピアノが止まる。

 いつの間にやら杏ちゃんは椅子から転げ落ち、ぎょっとしていた。うーん……驚かせるつもりはなかったんだけど、ワタナベサウンドが炸裂しちゃったみたい。

 愕然とした表情で、歌姫様は声を震わせる。

「ね、念のために聞かせてちょうだい。……今の何?」

「『ロンドン橋落ちた』でしょ?」

 椅子から落ちたのは彼女だけどね。

 物心がついた時分から歌ってる彼女にとっては、信じられないレベルらしいわ。次の曲でも案の定、杏ちゃんの両手が鍵盤をずるーっと右へ滑り抜けていく。

「どっ、どうなってるの? あなた……その音痴に自覚はあるんでしょう?」

 面と向かって『音痴』と言われちゃった。

「以前は普通に歌ってるつもりだったのよ。でも最近、ちょっぴりおかしいなあって」

「ちょっぴり? これが『ちょっぴり』なのっ?」

 これでも同じ歌を繰り返し練習すれば、多少はましになるのよ、多少は。

「一ヶ月くらいで矯正できないかしら」

 杏ちゃんはよろけながらも、わたしの両肩をしっかりと掴む。

「……悪いことは言わないわ。咲哉、歌は諦めましょう」

 むしろ杏先生のほうが諦めてしまった。

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