第170話
これで提出……あとは審査員のお眼鏡に適うかどうか。一次選考で落ちたら、一ヶ月くらいはへこんじゃいそうだわ。
忘れないうちに、応募が完了したことを蘭さんや井上さんに報告しないと。
井上さんは穏やかな声で労ってくれた。
『お疲れ様。ゆっくり休んで、次はステージ衣装のほうもお願いね』
「それなんですけど、候補のラフができてるんです。お時間があるなら、今からでも」
『あらそう? じゃあこっちで……ええ、一時間後に』
まだお昼過ぎだから、と思ったの。応募作品を提出した直後で、外の空気を吸いたかったっていうのもあるわね。
けど、この判断は失敗だった。何しろ八月だもの……。
昼間に出るなんて暑いに決まってるうえ、わたしの場合は背中を密封してるわけで。VCプロの事務所に着いた頃には、スポーツドリンクが底をついてた。
「ふう……」
井上さんの指示で、事務所ではモデルの九櫛咲哉として振る舞うことになってるから。伊達眼鏡を外し、髪も解いて、ロビーで涼む。
そこでふと、きょろきょろしてる女の子と目が合った。
「あ! あのぉ……アポイントって、どうやって取るんですか?」
見たところ普通の女子高生ね。
「誰かにご用?」
「はい。社長の井上さんが、オーディションの結果を聞きに来なさい、って……」
オーディションということは、アイドル候補生だったりするのかしら。
「呼ばれてるなら、時間の指定もあったでしょう?」
「えっ? そーいうのはないんですけど。受付のひとに聞いたら、アポイントがないとお取次ぎできませんって……ええっと」
候補生は困惑の色を浮かべながらも、はきはきと質問してきた。
「そもそも『アポイント』って何ですか?」
わたしはきょとんとする。
「簡単に言えば『約束』よ。井上さんに呼ばれた時点で、あなたはもうアポイントを取ってるの。そのことをちゃんと受付に言えば、会わせてくれるわ」
「なあんだ……。社長に会うのに、通行証でも要るのかと思ってました」
なるほどね、この子はアポイントの意味を知らなかったんだわ。多分、受付で『アポイントはお取りですか』と聞かれ、『ない』と答えたのよ。
新人なのは間違いなかった。
「わたしも井上さんに用があるの。一緒に行きましょうか」
「はいっ」
彼女を連れてエレベーターへ乗り込む。
「あなた、お名前は? 高校生よね?」
「私は御前結依。高一です」
「じゃあわたしと同じね。そんなに畏まらないで」
本当はひとつ年上なんだけど、同い年ってことにしちゃった。
結依ちゃんの言葉遣いが一気に砕ける。
「そお? なんか雰囲気あるから、勝手に年上だと思ってたんだー」
「うふふっ。そうそう、わたしは……」
自己紹介しようとするも、エレベーターは目的のフロアへ。
先にエレベーターを降りながら、結依ちゃんは肩越しに振り返った。
「ねえ、ひょっとして……あなた、ファッションモデルの九櫛咲哉、さん……?」
自己紹介の前に素性を言い当てられちゃって、わたしは苦笑い。
「そうよ。今はこのVCプロに所属してるの」
結依ちゃんのつぶらな瞳が輝いた。
「すっごぉ~い! 私、こんなに間近で芸能人を見たのって、初めてっ!」
でも羨望のまなざしはかえって、わたしを気後れさせる。
もうRENAにサインできる立場じゃないもの。
「さ、最近はその、モデル業のほうはずっとお休みしてるから……事務所の中なんだし、あんまり騒いだりしないで」
「あっと……ごめんね」
結依ちゃんは声のボリュームを下げつつ、思案げに瞳を転がした。
「……あれ? でも九櫛咲哉って、確か私よりひとつ年上だったような……」
羨望に応えるよりは楽な質問ね。
「芸能学校を辞めて、普通の高校に入りなおしたから。留年というより一浪かしら」
「そうだったの? 事情はわからないけど……」
九櫛咲哉が事故で大怪我したことは、公式には伏せられてた。表向きは忽然と姿を消したことになってて、当時はさまざまな憶測が流れたものよ。
マーベラスプロと折り合いがつかなくなったとか、RENAと揉めたとか。別に口止めされてたわけじゃないけど、わたしも公表する気になれなくって。
「じゃあ、やっぱり先輩なんだ?」
「気を遣わないで。高校一年生同士で、ね」
結依ちゃんとともに社長室へ入ると、井上さんには意外そうな顔で迎えられた。
「あら……結依と一緒だったの」
「わたしは今日一日オフみたいなものですから、あとで構いませんよ」
「そうね。……あぁ、咲哉もいてちょうだい」
わたしが席を外す間もなしに、新人の結依ちゃんに一枚の封筒が渡される。
あの薄いのはもしかして……。
「残念ながら不合格よ。でも経験にはなったでしょう?」
「は、はあ……」
結依ちゃんは終始『わからない』って表情だった。
「次のオーディションも頑張りなさい」
「えっ? また受けるんですか?」
「結果はいいから。あなたに必要なのは、とにかく業界を『知る』ことよ」
自ら望んでオーディションを選び、受けたのなら、落選は悔しいはずだもの。なのに無関心、無反応ってことは、まだそれ以前の段階なんでしょうね。
でも……そんな駆け出しの新人を、社長がじきじきに面倒見るのもおかしいわ。落選の連絡にしたって、プロデューサーなりが伝えることだし。
井上さんは視線をわたしに向けなおす。
「それじゃ咲哉の件だけど……結依、ついでにあなたも聞きなさい」
「はーい」
結依ちゃんも交えて、わたしたちはソファーに腰を降ろした。真中のテーブルにノートパソコンを置き、あらかじめ送っておいた草案を開く。
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