第161話
あれきりモデルは廃業よ。
デザインのお仕事とも距離を取って、ずっと蘭さんの気を揉ませてる。
「心の整理がついたら、いつでも戻ってきてちょうだい。みんなも待ってるわ」
でも戻る気になんてなれなかった。
カリスマファッションモデルと持てはやされたのも、去年までのこと。わたしを特待生として迎えたものだから、芸能学校も頭を抱えてるわ。
お父さんには『それ見たことか』と吐き捨てられ、喧嘩になった。
お母さんは『もう服飾は趣味でいいじゃないの』って……。
マネージャーの菊池さんもわたしの担当を外れ、ほかのタレントのサポートにまわってる。わたしは……またひとりぼっちね。
お世話になったマーベラス芸能プロダクションとは、そこでお別れ。
「学校に入りなおす? 別に二年からの編入でも……」
「ううん。あと半年、勉強して、普通の高校に入りたいの」
お母さんと相談して、芸能学校も辞めることにしたわ。
お仕事のおかげで高校生にしては貯金があったし、退職金と慰謝料も出た。私立の学費でも自分で払えるくらいにね。
お父さんが今さら頭を下げ、学費は出すと言ったけど、断った。
服装はがらりとイメージを変え、黒縁の伊達眼鏡を掛けるように。自分の容姿が強烈なのは、さすがに学習してるから、高校もこれで通うつもりよ。
やっぱり女子高がいいかしら……それでいて、校風の自由なところ。
芸能学校には行かず、受験勉強しながら、一日置きにスポーツジムで汗を流す。
傷ついてしまった惨めな身体に、自分で引導を渡したかったのかもしれないわね。筋肉をつけて、モデルならではのプロポーションを壊してやる――って。
そうやって、ひと夏を勉強と身体作りで過ごす。
それは日課となり、秋になっても、年が明けても、わたしは一心不乱にトレーニングを続けてた。身体を動かしてさえいれば、くよくよ考えなくて済むのもあったから。
少しは心も癒えて、デザイナー仲間と連絡を取りあうくらいにはなった。
「本当に辞めちゃうのね、学校……」
「服飾の専門学校も考えたんだけどね。やっぱりその気になれなくて」
「実績はあるんだから、高校を卒業してからでもいいわよ」
やがて新しい春が来て、わたしは平々凡々な高校へ入学した。今まではお母さんの旧姓である『九櫛』を使ってたけど、ここでは『渡辺』を名乗ってる。
目立つ髪は結んで、黒縁眼鏡を掛けて。
誰もわたしが一世を風靡した、あの九櫛咲哉だとは気付かなかった。それ以前に九櫛咲哉なんてファッションモデル、とっくに忘れられてたのよ。
クラスメートにはありきたりな『地味子』を演じる。
でもジムに通ってたせいか、体育の授業では目立っちゃったわ。その噂を聞きつけ、二年や三年の先輩がわたしを勧誘に来る。
「渡辺さん! テニス部に来ない? あなたなら絶対、活躍できるから!」
「あの、近眼で……」
伊達眼鏡を理由にして、それを断るわたし。
体育会系の部活も楽しそうとは思うのよ? でも上下関係だの競争だのに身を投じて、居心地が悪くなるのは避けたかった。
あの事故からじきに一年。九櫛咲哉は消え、渡辺咲哉が隅っこで生きてる。
だからもう終わったものと――この時のわたしは思ってた。
「芸能関係者のかたが、わたしに……ですか?」
「なんと言ったかなあ……これが名刺だよ」
突如としてわたしのもとに現れたのは、VCプロの井上さんだったの。井上さんはつてを辿って、わたしの通ってる高校を探し当てたらしいわ。
今になって、わたしなんかに何の用かしら?
「渡辺、お前、ひょっとして芸能活動でもやってるのか?」
「いえ……服飾の方面で何人か知り合いがいるんです」
「意外だなあ。スタイリストとかに興味あるふうには、見えないんだが」
その日の放課後、わたしは指定にあった喫茶店へ。
「お待たせしました。井上さん」
「え……?」
意外そうに井上さんは目を点にして、数秒の間が空いた。
「九櫛さんなの? 驚いた……声を掛けられるまで気付かなかったわ」
「学校はこれで通ってるんです。悪目立ちしますから」
伊達眼鏡の地味子こと、わたしも同じテーブルに着き、コーヒーを注文。
「賢明ね。だから名前のほうも?」
「はい。今は渡辺です」
お互いどことなく余所余所しい雰囲気ね。
それもそのはず、わたしたちはあの事故のあと、病院で一度会ったきりだもの。
「ケータイに掛けていただいてもよかったんですけど……番号をご存知なくても、マーベラスプロのほうへ問いあわせてもらえば、多分」
……っと、井上さんの不手際を責めるような言い方になっちゃったかしら。
井上さんはさして顔色を変えず、コーヒーに口をつけた。
「個人情報だから遠慮したのよ。あなたも急に知らない番号から掛かってきたら、構えてしまうでしょう?」
一年前も思ったけど、礼儀正しいひとなんだわ。
わたしにとっては同じ事故で大怪我をした者同士、聞く姿勢にはなる。
「腕の怪我はもう何ともないんですか?」
一年前に負傷したはずの左手で、井上さんは髪をかきあげた。
「動かす分にはね。ただ、大きな痕が残ってしまって……」
その言葉にぎくりとする。
「あなたのことも聞いたわ。背中に痕が残ったせいで、モデルを続けられなくなったんですってね……。あなたのほうこそ本当に大丈夫?」
「心の整理はついた……つもりです」
気を遣わせたくないから、嘘で通すほかなかった。
件の事故から一年以上が経過したものの、心の整理なんてつくわけがない。デザイン業もろくに手をつけられず、あの日、あの場所で失ったものを数えてばかりいる。
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