第85話

 蓮華さんが包容力たっぷりに微笑む。

「それよりお仕事のほうで、何かないかしら? 悩みとか」

「えっと、じゃあ……あたしから」

 改まって奏ちゃんは姿勢を正し、告白を始めた。

「お仕事で今度、アニメの声優に挑戦するんですけど……上手くいかなくって」

「あらあら。声優は初めて?」

「はい。芸能学校の授業で少しかじった程度なんです」

 奏ちゃんはれっきとした歌手だもん、丸っきりの素人じゃない。ボイス収録のイロハにもそれなりに通じてるはず。

「よくあるゲスト声優ってやつね。どんな役?」

「ハークルっていう、悪役のマスコット……みたいな? 語尾に『クル』をつけて喋らなくっちゃいけないんです」

 怜美子さんと蓮華さんは意味深な調子で顔を見合わせた。怜美子さんは昔、大人気の声優だったから、すぐわかっちゃったみたい。

「あー。無茶やってくれるわねぇ」

「奏ちゃんが苦戦するはずよ」

 蓮華さんは奏ちゃんを見詰め、宥めるように囁く。

「実はね、主人公よりも悪役のほうが難しいの。マスコットキャラも総じて難易度は高いわ。どっちも、普通は実力派のベテランが担当するのが常だから」

 奏ちゃんは愕然とした。

「そ、そんなに難しい役に、どうしてあたしなんかを……」

「井上さんが『冒険させてみよう』と思ったんじゃない? あのひと、こういう無茶ぶりするの、昔から好きだもの」

 確かに井上さんの采配って、時々ぶっ飛んでる。

 アクシデントのせいでステージに上がった私を、スカウトするくらいだし。

 渦中の奏ちゃんは参ったようにうなだれた。

「来週、あたしだけ再収録なんです。それまでに取っ掛かりのひとつでも掴めたら、いいんですけど……はあ」

 杏さんが遠慮がちに問いかける。

「その収録でもだめだった場合は、どうなるの?」

「リカか結依にまわすって」

「……わたしって選択肢はないのね、やっぱり」

 リカちゃんは得意げにウインクした。

「アタシは映画の撮影で忙しいし、結依もバックダンサーの練習でしょ? 奏が頑張るしかないんじゃないのぉ?」

「わかってるってば。だから、こうして悩んでるんじゃないの」

 私も奏ちゃんの代打で、なんて納得できないと思う。

 怜美子さんはくすっと笑みを零した。

「なら、そうね……奏ちゃん、収録の日まで、あなたは会話の全部に『クル』をつけて喋りなさい。おはようからおやすみまで、ぜ~んぶよ」

「ええっ? でも、それに何の意味が……」

 奏ちゃんは戸惑うものの、女王様に慈悲があるわけない。

「ほらほら。『それに何の意味があるクル?』って、言わなくっちゃ」

「え……ええっと……」

 おかげで奏ちゃん、喋るに喋れなくなっちゃった。

 リカちゃんは他人事みたいに笑ってる。

「あははっ! いいじゃない、奏。なんならアタシも付き合ったげよっかあ?」

「か、からかわないでったら! ……クル」

 取って付けたような最後の『クル』には、私と杏さんも噴き出した。

「あははははっ! 笑わせないでよ、奏ちゃん!」

「可愛い! これは練習になるわね、絶対……くくっ」

 奏ちゃんは強がりな表情を赤らめる。

「憶えてなさ……お、憶えてろ、クル……?」

「その調子、その調子」

 これ、ほんとに練習になるのかなあ? 意地悪な怜美子さんのことだから、単にからかってるだけって可能性もあった。

 涙が出るまで笑った杏さんが、落ち着き払って顔をあげる。

「ところで……わたしも相談、いいですか? 観音さん、鳳さん」

「あっらー? どっちに聞きたいわけ?」

 悪魔が笑った。自然と杏さんの視線は怜美子さんから逸れてっちゃう。

「で、できれば……鳳さんに」

「可愛げのない子ねー。たっくさんアドバイスしてあげるのに」

 杏さんが怜美子さんにイビられる日も、近いかも?

 そんな怜美子さんにプレッシャーを感じつつ、杏さんは素直に打ち明ける。

「今、CMの撮影をしてまして……次のCMは台詞も入ってるんです」

 そこまで聞いて、ぴんと来た。

 先にリカちゃんが答えを曝露する。

「棒読みだもんねー、杏」

「……その通りよ」

 明松屋杏が大の苦手とするのが『演技』なの。いつぞやのドラマの撮影でも大根役者ぶりを如何なく発揮して、お鉢が私にまわってきたりもしたっけ。

 杏さんの声が沈んでいく。

「克服しなきゃって思うんです。でも、リカみたいにはできなくて……」

 リカちゃんは心配そうにぼやいた。

「気負いすぎなんじゃないのぉ? 杏ってば、頭で考えすぎなのよ」

「あなたの言うこともわかるわ、リカ。だけど……はあ。どうもわたし、心情の表現っていうのが苦手みたいで」

 何も台詞に限った話じゃないの。表情、仕草、間の取り方――あれもこれも駆使してこそ、演技に深みが出るってわけ。

「声ひとつで勝負する声優の仕事とは、また違った難しさがありそうクルね」

「その調子よ、奏ちゃん」

 ただ、私はまだCM撮影を経験してないから、杏さんの悩みを想像しきれなかった。

 リカちゃんが気まぐれな笑みを咲かせる。

「だったらさあ、杏も今度、アタシの仕事見に来たら? 蓮華さんも一緒だし。やっぱりプロの演技を見たほうがいいでしょ」

「そう? じゃあ、お邪魔でないのなら……」

 杏さんも強がったりせず、素直に折れた。

 ふたりの関係がこそばゆくって、私は笑いを堪えずにいられない。

「なんだか不思議。杏さんとリカちゃん、最初の頃は喧嘩ばかりしてたのに」

「……そうだったかしら?」

 杏さんのほうは真顔で首を傾げる。

 対するリカちゃんは肩を竦め、大袈裟に嘆息した。

「憶えてないわけ? アタシと怜美子さんで脅かした時も、プッツンいってさあー」

「あっはっは! あの夜のやつね。あった、あった」

 怜美子さんの陽気な笑い声が響く。

 ほんっと、『あの夜』は大変だったなあ……。杏さんとリカちゃんが一触即発ってところで、怜美子さんが幽霊に扮し、杏さんにドッキリを仕掛けて。

 杏さんは大激怒! リカちゃんも拗ねちゃって、真中の私はたじたじだった。

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