第54話
あたしは響子を誘って、適当な喫茶店に入った。
「悪いわね、付き合わせて」
「気にしないで。私も美園さんが連れてきたっていうあなたに、興味あったの」
お互い、相手に関心がある。
あたしにとっての響子は、バレエに造詣が深い、同い年の女の子だった。正式な劇団員だからこそ、伊緒のオーディションに役立つ情報を持ってる、と思ったわけ。
そんなあたしの考えには、相手も勘付いてる。
「美園さんにできるアドバイスなんて、ないわよ? 私」
「いいってば。今日はちょっと、あなたに教えて欲しいことがあって……伊緒の実力ならオーディションも大丈夫だろうし」
あたしと響子の声が重なった。
「あがらなければ、ね」
「ビビらなきゃね」
伊緒に度胸が足りてないことは、早くも共通の認識になってる。
間もなくあたしにはコーヒーが、響子にはレモンティーが運ばれてきた。先に響子がレモンティーに口をつけ、肩の力を抜く。
「朱鷺宮さんも聞いてるんでしょう? 美園さんの昔の話」
「聞きかじった程度にはね」
美園伊緒を舞台から遠ざけた最たる理由は、わかってた。バレエのブームを狙って、業界の連中が小学生の伊緒を『天才少女』と囃し立てたのよ。
響子が淡々と、しかしはっきりと呟く。
「バレエを馬鹿にしないで」
「……え?」
「あの子の台詞よ。マスコミの前でさあ踊ろうって時に、そう言ったらしいわ」
それがあの内気な伊緒の言葉だなんて、俄かには信じられなかった。今こうして話してる響子自身、腑に落ちないって顔してる。
「美薗さんの言うこともわからなくはないのよ。例えばフィギュアスケートだと、何回転ジャンプが成功するかどうか、ってところばかり注目されるでしょ?」
あたしは親指で唇をへの字に曲げた。
「確かにね。でも、あれは点数が出る競技だし……」
大会の実況を聞いてても、フィギュアスケートは何かとジャンプの成否に拘るきらいはあるかしら。無論のこと、それはジャンプが採点に大きく影響するから。
「じゃあ、もうジャンプだけで競えばってなるじゃない?」
「そんなことは……」
だからって、ジャンプだけがフィギュアじゃないのよ。選曲、構成、表現力……ジャンプのように成否の一発で判断できないものこそ、問われるわけ。
あたしにもだんだん響子の意図が読めてきた。
「前にアニキがぼやいてたわ。一発KOの何がボクシングだよ、って」
「それよ。フィギュアはジャンプだ、ボクシングはKOだなんてのは、素人の言うことでしょう? ましてやバレエの場合は、どんな大技を成功させたところで……ね」
バレエの舞台で高難度のアチチュードを決めても、点数は出ないし、有効打にカウントされるわけでもない。大事なのはダンスを通して『何を表現するか』なのよ。
にもかかわらず、マスコミたちは『天才少女』を売り出すことしか頭になくて、バレエの芸術性を軽んじたの。
繊細な伊緒はそれを肌で感じ、嫌悪感を抱いたんでしょうね。
「バレエを馬鹿にしないで……か。小学生にそれを言われちゃ、ねえ」
「連中はみんな、あの子に図星を突かれたわけよ」
結局マスコミが欲しかったのは、話題性だけ。バレエを盛りあげるのに、そのバレエをないがしろにして、何やってんだか。
「それ以前からあがり症の気はあったし……」
響子がちらっとあたしのコーヒーに視線を投げ込む。
「朱鷺宮さん、フレッシュは?」
「え? ……あぁ、コーヒーのこと?」
話に夢中でコーヒーを飲むのも忘れてた。カップを手に取り、濃厚な香りを楽しむ。
「ブラックでいいのよ、あたしは」
あたしとしては、砂糖だのミルクだのを混ぜるほうが、どうかしてた。せっかくの珈琲豆の風味がぶっ飛んじゃうでしょ、そんなの。
「美園さんの友達には意外なタイプね」
「かもね。でも、伊緒もやる気にはなってるみたいよ? 今度のオーディション」
「それは僥倖だわ」
僥倖って、また小難しい言葉を……こいつも伊緒の友達ってのが不思議だわ。
響子は溜息交じりにレモンティーの氷を鳴らす。
「だけど……あがり症を別にしても、難しいかもしれないわね」
「そうなの?」
あたしは小さな不安に駆られ、コーヒーの味も忘れた。
「やっぱり伊緒くらいの子は、ごろごろいる感じ?」
「そりゃあ劇団にはね。でもオーディションを受ける子で、美園さんみたいに三十二回転ができるバレリーナは、まずいないわ」
さ……さんじゅうにかい?
三十二回まわるってことは、わかるけど……フィギュアスケートでよくいう四回転ジャンプの八倍よ? ジャンプはしないにしても、想像の範疇を超えてる。
「何それ」
「美園さんにはできるのよ。その三十二回転が」
響子は言葉に畏怖さえ滲ませる。
「本番で三十二回できるってことは、練習ではその倍、つまり六十四回まわれるってことよ。平衡感覚はもちろん、ダンスの勘ってのが桁違いなの」
本当に言葉通り『桁』が違ってた。本番は三回で練習は六回って数字を、十倍にしちゃってるんだから。それだけの技を持ってるなら、自信もつきそうなものよね。
でもあたし、伊緒の応援は『急がない、焦らない』って決めてた。
頭ごなしに『緊張するな』って言ったって、伊緒には難しいでしょ? 実際、度胸をつけさせようと路上ライブへ連れ出したら、逃げられちゃったし。
いつぞやのお偉いさんやマスコミのように、あたしが無理強いをして、伊緒のチャンスを台無しにしたくないの。だからこうして、初対面の響子に縋る真似もできた。
「オーディションまでに、伊緒のあがり症を少しでも改善しておきたいの」
「困ったものよね、美園さんも」
同じ溜息が重なる。
劇団員の響子は、さらに別の懸念も付け足した。
「問題はもうひとつあるわよ。今度のオーディション、審査に絡んでるのが……その、技術より表現力を重視するタイプでね?」
響子の言わんとすることに、ぴんと来る。
「高校生なら技術はあって当たり前……だったら、なおのこと」
「察しがいいじゃない。その通りよ」
楽曲コンクールと同じだった。
いくらギターのテクを見せつけたところで、それは所詮、技術でしかないの。一端のギタリストなら練習次第でできるようになるでしょ?
だから審査員は、技術は水準に達してるものとして、その先を求める。
「しかも今回のお題はひねくれてるから、とっかかりが掴めてないのかも……ね」
あたしは瞳を瞬かせながら、首を傾げた。
「お題って、『ジゼル』?」
「そう。第一幕と第二幕のジゼルを演じ分けろ、ってお題なのよ」
まだ『ジゼル』は見てなかったわ。資料室のDVD、貸出中だったのよね。
響子によれば、あらすじはこんな感じ。
村娘のジゼルが、ロイスという男性と恋に落ちる。ところがロイスは、実は貴族のアルブレヒトで、将来を誓いあった婚約者もいた。
ほんの遊び心で、ジゼルにちょっかいを出してたわけ。
騙されていたと知ったジゼルは、心臓が弱いこともあって、ショック死してしまう。
続く第二幕では、ひとを死ぬまで踊らせる亡霊『ウィリー』となり、ジゼルは再びアルブレヒトの前に現れる。それでも、とうとう彼の命を奪うことはできなかった。
彼を愛しているから。
「第一幕のジゼルは問題ないでしょうね。村娘の初心な恋愛なら、今の美園さんでも充分深みのあるダンスにできるわ」
響子の懸念してることが、素人なりにも読めてくる。
「でも第二幕は、ただの恋愛感情じゃないから?」
「そこよ。恋愛ではあるんだけど、憎悪や復讐の感情も混ざってる、っていう……何より難しいのは、第二幕のジゼルは『すでに死んでる』という点かしら」
あたしはざっくばらんに言い換えた。
「死んだ人間をダンスで表現しろ、って?」
「ご名答。第二幕のジゼルは正直、バレリーナでも意見が割れる役なの」
死んだひとの怨念なら、まだイメージできるわ。
残された恋人が死者を想うってのも、わかる。
だけど『ジゼル』の第二幕は、死んだヒロインが、まだ生きている恋人を熱烈に想うお話だった。そんなヒロインの心境なんて、あたしには想像がつかない。
そりゃ死んだことないんだもの。
「審査員は『ジゼルの特異な心理をどう解釈するのか』を、重視するはずよ」
なるほどね。自信満々に三十二回転を披露しても、それがジゼルのダンスとして相応しくなければ、評価はされない。
それ、前にあたしが高音域の声をメインに作曲してたのと、似たパターンだった。
単に持ち前の技術を羅列するだけじゃ、曲にならないのよ。どんなにギターの早弾きができたって、早弾きを見せびらかすための構成にしたら、すぐに見抜かれる。
そのことを、あたしは今になって認識できた。
歌声を自慢するためだけの曲を作っては、バンド仲間を振りまわして。
プロになることにばかり躍起になって、肝心の音楽をないがしろにしてたんだって、今なら自覚できるの。音楽は『音を楽しむ』って書くのに。
みっともない話よね、ほんと。
「そういうところも踏まえて『ジゼル』を観てみると、面白いわよ」
「絶対に観るわ。さすが劇団員ともなると、詳しいじゃない」
とりあえず伊緒にとって、今度のオーディションが一筋縄じゃいかないってことはわかった。技術云々よりも、ヒロインの心理描写でアピールしないといけないんだわ。
「ジゼルの心情か……」
「美園さんも悩んでるんでしょうね。相談に乗ってあげて」
素人のあたしに言えることなんて、そう多くない。
だけど、伊緒はあたしを絶望の淵から救ってくれたんだもの。何でもいいから、お返しがしたかった。あたしなりに『ジゼル』を研究しておかなくっちゃ。
「劇団は公演の練習、忙しいんでしょ?」
「まあね。でもみんな、すごいモチベーションでやってるのよ。私は第三幕で……」
そのあとは響子の、半分は自慢の話題で盛りあがった。
こういう自分の実力に正直なやつって、嫌いじゃないのよね。同世代とアドレスを交換したのも、伊緒は別にして、久しぶりのこと。
それにしても……補習でバレエスクールに来られないなんて、伊緒ってば。
「響子、高校はどこなの?」
「劇団への入団に合わせて、舞踏科のある学校にね」
あたしはちゃんと勉強しようっと。
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