第19話

 話し込んでるうちに消灯時間を過ぎたのか、廊下のほうは暗くなってた。リカちゃんがぶるっと震え、小動物みたいな目で私に縋りつく。

「結依、ついてきてよ~。ね? ねっ?」

 まだ怪談が気がかりらしい。私は肩を竦めつつ、おもむろに起きあがった。

「しょうがないなあ。杏さんは?」

「わたしは別に……」

 と杏さんが言いかけたタイミングで、夜風が窓をがたがたと揺らす。

「そ、そうね。わたしもトイレくらい済ませておこうかしら」

 三人一緒に化粧室まで行くことにした。

 私の背中にはリカちゃんがぴったりとくっついてるせいで、少し歩きにくい。おまけにほかの部屋は消灯し、廊下には非常灯しか残っていない。

「やばいんだって、ドラマの撮影は。……背景の窓に人影が映ってた、とかさあ」

 とはいえ化粧室の近くまで来れば、自販機の灯かりもあった。

 緊張気味だった杏さんが胸を撫でおろす。

「怖いって思うから、余計に怖くなるのよ。そんなの、どこにでもある──」

 ところが、あったはずの灯かりが唐突に消えちゃう。

 視界は真っ暗になって、何も見えなくなった。

「ちちち、ちょっと! ちょっとちょっと! 結依、ウソでしょお? 離れないで!」

「ぐくっ、苦しい! リカちゃん、し、絞まってるってば!」

 リカちゃんが暴れるように狼狽し、私に後ろから羽交い絞めを仕掛けてくる。

 そんなリカちゃんの腕を解きつつ、私は杏さんを探す。

「た、たぶんブレーカーが落ちただけだよ。杏さーん、大丈夫ですか?」

「ええ、問題ないわ。じきに目も慣れるでしょう」

 私とリカちゃんが揉みくちゃになってる傍で、杏さんは携帯電話を開いた。懐中電灯ほどじゃないにしろ、灯かりにはなる。

 窓から月明かりも入ってくるおかげで、まったく見えないこともなかった。私はほっと安堵しつつ、リカちゃんと一緒に杏さんのシルエットを見つける。

 ……あれ?

 おかしい。杏さんの後ろに、もうひとりいるような……。

 ぞくっと寒気がして、私もリカちゃんも一秒のうちに竦みあがってしまった。

「リ、リカちゃん……あれって、まま、まさか?」

「ままっ、間違いないわ、あれよ、あれ」

 リカちゃんがごくりと息を飲んで、杏さんの後ろを指差す。

「ママの話はいいでしょ、もう。さっきから何見て――」

 ようやく杏さんが振り向いて、そのシルエットにはたと目を合わせた。

 全員の時間が止まる。

 長い髪を前に垂らした女性が、今にも杏さんに襲い掛かろうとしていたの。しかも女性はずぶ濡れで、ぽたぽたと水を滴らせていた。

「タス、ケ、テ……」

「きゃああああああああああ~~~ッ!」

 杏さんの絶叫がペンションに響く。

「ゆゆっ結依! 何よ、あれ、何なのよおっ!」

「ちょっと、杏! なんでこっちに逃げてくんのよぉ?」

 杏さんは腰を抜かしつつ、私の足元まで這い寄ってきた。リカちゃんにも挟まれて、私は身動きできない。

「ふたりとも、おっ、落ち着いて? 杏さんも離してくださいっ!」

 女性の霊はよりによって、中央の私を見据えていた。おぞましい唸り声をあげながら、じりじりとにじり寄ってくる。

 杏さんとリカちゃん、ふたり分の体重が掛かって、立っていられなかった。

「ツメタイ……サムイ、ダシテ……ココカラ、ダシテェ……」

 幽霊の細い手が、私と杏さんのくるぶしを掴む。

「やっやだ、やだやだやだ! 杏さん、助けてください!」

「リカが変な話するからよ! こないでっ、こないでぇえええ!」

 私も杏さんも悲鳴を重ね、ひしと抱きあった。恐怖が最高潮に達して、涙ぐむ。

「タスケ、テェ……ぷっ、んぷぷ」

 ところが怨嗟の言葉は、急に小さな笑いに変わった。

「あははははははっ!」

 幽霊がお腹を押さえ、けらけらと陽気に笑いだす。

 同時に照明が戻り、廊下の全体が明るくなった。そこにはカメラマンの姿も。

「え……? あ、あの、これって……?」

 いつの間にか、私にしがみついてるのは杏さんだけになってる。

 私たちは放心しちゃって、目を白黒させた。

「びっくりしたでしょ、結依ちゃん? お約束のドッキリよ」

 幽霊が髪を背中に流すと、観音怜美子の顔が出てくる。怜美子さんはスタッフからバスタオルを借り、意地悪な笑顔を拭った。

 しかも、さっきまで一番怖がっていたはずのリカちゃんまで、笑い転げているの。

「ひー! 死んじゃう! お腹痛ぃ……結依も杏も、あははっ、ビビりすぎ!」

 まさか……ううん、間違いない。

これはドッキリで、みんなして私と杏さんを嵌めたんだわ。

「あー面白かったぁ。こんなに上手く引っ掛かってくれるんだもん」

「もしかして、リカちゃんも怜美子さんと……」

 完成度が高すぎて、怒る気にもなれない。それでも私は裏切り者を睨みつけた。

 お調子者のリカちゃんがウインクを決める。

「ごめん、ごめん。怜美子さんに頼まれちゃって。迫真の演技だったでしょ」

 夕食の時から怖がりなキャラクターを『演じてた』わけね。

「そうだったの? びっくりしたあ……怜美子さんも怖すぎです」

「新人への洗礼ってやつよ」

 酷い目に遭わされちゃったけど、私は表情を綻ばせた。こういう悪戯を仕掛けられたということは、歓迎されてるってことでもあるんだし。

 リカちゃんや怜美子さんの名演技には、驚きさえしてた。

「今にして思えば、冷静に考えたら、すぐわかりそうだったのに……」

「勉強になったでしょう? それだけ、わたしたちの演技に引き込まれてたのよ」

 怜美子さんが私の頭をぽんぽんと撫でる。

 リカちゃんはまだ涙ぐんで笑ってた。

「結依の反応は予想してたけど、杏のはほんと、サイコー!あゃははっ、ユーレイなんていないんじゃなかったのぉ?」

 ずっと放心していた杏さんの顔が、みるみる赤くなる。

「……リカっ!」

 金切り声は廊下を突き抜け、スタッフ全員を一瞬にして強張らせた。

「最低よ、あなた! こんなことして、何が楽しいっていうの?」

 杏さんが憤慨し、さっきの絶叫よりも荒々しく声をあげる。

 勢いに気圧され、リカちゃんはうっと押し黙った。

「ほんと怖かったんだから! 知らない……リカなんてもう絶対に知らないっ!」

 私も口を噤んで、突風が過ぎるのを待つ。

 杏さんはずかずかと廊下を引き返し、部屋のほうに戻ってしまった。

 生真面目な杏さんには悪ふざけが過ぎたんだわ。そのうえ、リカちゃんに対する日頃の不満が爆発しちゃったみたい。

主犯の怜美子さんは暢気にあくびしていた。

「あーあ、やっちゃったか。いるのよねぇ、ああいう頑固な子」

「ど、どうするんですか! 杏さん、めちゃめちゃ怒ってましたよ?」

「あなたがフォローするしかないんじゃないの?」

 スタッフの視線も私に集まる。

 明日以降も撮影は続くんだから、杏さんをこのままにはしておけなかった。

 リカちゃんもへそを曲げ、不機嫌そうに口を尖らせる。

「なによぉ、あんな本気で怒らなくったって……」

 これはお仕事どころじゃなくなってきた。ただでさえ相性の悪かったふたりの関係が、決定的にこじれちゃったんだもの。

 とりあえず、リカちゃんが杏さんに謝るのが筋なんだけど……。

「リカちゃん、謝りに行こ?」

「空気読めない杏が悪いんじゃない。あたしのほうが知~らないっ」

 完全に拗ねちゃって、取りつく島もない。

「大体、結依はどっちの味方なのよ? 杏さん杏さんって、懐いちゃってさ」

「そ、それは……どっちも友達だと思ってるし?」

 杏さんを立てればリカちゃんが立たず、リカちゃんを立てれば杏さんが立たず。間に立たされる羽目になった私の苦悩は、微熱を発しつつあった。

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