1杯目 買うべきか否か

「絶対買うべきですよ」


 ハチワレ猫(この時はまだ『みたらし』ではなかった)をお持ち帰りしたその翌日、ヨリ子ちゃんはそう言った。


 いやいや、この場合『買う』じゃなくて『飼う』ですよ、誤字です、訂正してください。宇部さん、あなたの国語力にがっかりです、と思った方もいるだろうが、いやいや、まずは最後まで読んでくださいって。


「いや、そんな簡単に言われてもね」

「だって可哀想じゃないですか」


 ほんのりピンク色の可愛いほっぺをぷくぅと丸くして、ヨリ子ちゃんはご立腹である。全く、怒っている顔もとっても可愛いヨリ子ちゃん(当時23歳)なのである。


「だってもう買ったらある意味アウトじゃん」

「何がアウトなんですか」

「俺、動物の世話とか無理だよ。自分の世話で手一杯なのに」


 店内は、客のオーダーをすべてさばききったため、しばしのんびりとした時間が流れていた。いまでもそこまで混む店じゃないが、オープン当初はそりゃあもう暇だった。定住先を探す閑古鳥が、何度店内を物色しに来たかわからない。一応「いや、これからだから」とその都度追い返したが。新しい店が出来たといって行列が出来るのは、それが有名チェーン店の場合であって、こういう個人の店はそんなミラクルはそうそう起こらないのだ。


「ヨリちゃん家は駄目なの?」

「無理です。ウチ、ハムスターとドーベルマンいるんで」

「何その組み合わせ」

「可愛いですよ、見ます? ハムスターの『チーズボール』とドーベルマンの『テリヤキ』です」

「名前のセンス! しかもドーベルマン室内飼いなの?! 大丈夫、チーズボール?!」

「大丈夫ですよ、チーたまはかごから出しませんし、テリーもきちんと躾けてますから」

「テリーって呼ぶといきなり恰好良くなるな。あと、チーズボールも『チーたま』って呼んでるの? チーカマみたいに? じゃあもういっそ最初から『チーたま』と『テリー』で良いじゃん」


 こんな会話を、客の迷惑にならないよう、極限までヴォリュームを絞って行っている。まだ出会って一週間程度なのに、その辺は熟年夫婦ばりの阿吽の呼吸だったりする。


 さて、冒頭の『買う』であるが、視線を少々下の方に向けていただきたい。マスターとヨリ子ちゃんが並んで立っているカウンターの足元に、『お部屋の消臭術(ざくろスプラッシュの香り)』の段ボールが置かれているのである。そう、昨日、ハチワレ猫が入っていたやつだ。洗剤や芳香剤の段ボールというのは、結構頑丈である。見た目の問題をどうにかすれば、何かしらの収納箱として再利用が可能な強度を有しているのだ。すぐに使えるライフハックとしてここに記しておく。

 そしてその『消臭術』段ボールの上に、『部屋干しアリウール(柔軟剤 in )』の段ボールが、これまた蓋のようにして被せられていた。外れないようにガムテープで数ヶ所留められており、中にいるハチワレが窒息しないよう、彼の手が自由に出るくらいの丸い穴を数ヶ所あけている。そして、先刻から、もぐらたたきのもぐらのように、その穴からひょこひょこと彼の手が出たり引っ込んだりを繰り返しているのだった。


「絶対可哀想ですって。虐待ですよこれは」

「そうかなぁ。ちゃんと食べ物とか、猫用のミルクも中に入れたし、タオルなんかウチにある一番ふかふかなやつにしたし、空気穴もあけてるから問題ないと思うけど」

「絵的に問題があるんです」


 というわけで、ヨリ子ちゃんは「例え束の間の付き合いだとしても、ここに置くならケージくらい買いましょうよ」ということを言っているのである。

 けれど、そんなものを買ってしまったら、そこからタガが外れて、あれこれ買ってしまい、結局は飼うことになるのだ、とマスターは主張している。そういう経緯で気づけば2匹3匹と家族を増やし、その幸せ猫ライフをSNSに上げている友人を何人も知っているのだ。


「いや、すぐもらわれていくと思うけどな。ほら、猫って可愛いし」

「可愛いなら飼ったら良いじゃないですか」


 そりゃそうだ。

 可愛いなら飼ったら良いのだ。別にここはペット不可の物件じゃないというか、そもそもこの建物だってマスターの所有物件なのである。猫を飼おうがイグアナを飼おうが問題はない。だったら抜け毛の心配がない分イグアナの方が良いのではと思ってしまうマスターである。いや、イグアナは脱皮するので、抜け毛はなくとも皮は落ちる。


「とりあえず、すぐもらってほしいのであれば、なおさら人目につくようにしないと駄目なんじゃないですかね。この状態だとこの子がどんなに美猫でもわかりませんよ」

「いや、ほら、そのために箱に穴をあけたわけだから」

「手でも突っ込めっていうんですか? そんな『箱の中身は何だろな』じゃないんですから」

「いや、覗いてもらおうかな、って」

「眼球に猫パンチ食らいません? それ」

「ああ、そうか。危ないな」


 そこでやっとマスターは箱の蓋を開けた。昨日は上部に蓋がない状態でも大人しく中に収まっていたのだ。だからこそヨリ子ちゃんに拾ってもらえたのである。これでちょいちょい箱から脱走するタイプだったら、「マスター、店の外にゴミが落ちてました」の報告と共に、彼の仮住まいはあっという間に解体されていただろう。猫の入っていない段ボールはただの段ボールなのである。いや、猫が入っていても、段ボールはただの段ボールだけど。


 てっきり、びっくり箱よろしくぴょんと飛び出すのかと身構えていたが、そんなことはなかった。中にいるハチワレは、急に明るくなったことに驚いたのか、きゅっと目をつむり、もぞもぞとふかふかのタオル(結婚式の引き出物か何かだったと思う)に潜り込んだのだった。


「これなら蓋を開けといても大丈夫かな」

「甘いですよ、マスター。動物って、慣れて来るとだんだんふてぶてしくなりますから」

「そういうもんなの?」

「まぁ、ウチのチーたまとテリーはそんなことありませんでしたけど」

「じゃあ、大丈夫なんじゃ」

「いえ、チーたまはケージから出しませんし、テリーは犬ですよ? ウチではもう主従関係をしっかり叩き込んでますからね。ただ、猫は……」

「猫は?」


 ちらり、と箱の中を見る。

 高級今治タオルがこんもりと膨らんでいる。そのこんもりしたものが端の方に移動を始め、段ボールの壁に当たったところで、もぞもぞと動いたかと思うと、ひょこ、と黒い耳が飛び出した。そこからさらにもぞもぞふるふると動き、ぷはぁ、とでも聞こえてきそうな表情をしたハチワレが顔を出す。畜生、悔しいが、情にほだされてしまいそうなほど可愛い。そこは認めざるを得ないマスターである。


「猫は、人間のことを下僕か何かだと思っている、と聞いたことがあります」

「げ、下僕?!」


 これまで、どちらかというと、坊ちゃん坊ちゃんと持ち上げられていたタイプだったマスターは露骨に嫌そうな顔をした。とんでもない、悪魔か、この可愛い生き物は、と。


「でも、これだけ可愛かったら、そうなっちゃう気持ちもわかる気がしますよ」


 ペーパーナプキンを細く裂き、ハチワレの鼻先でそれを振りながら、ヨリ子ちゃんは、ほう、とため息をついた。ハチワレは、それに興味を持ったのか、黄色い瞳をきらきらと輝かせている。


「マスター、この子、ウチの看板猫にしましょうよ」


 控えめにじゃれ始めたハチワレと視線を合わせてから、ヨリ子ちゃんはそう言ってマスターを見た。ね? なんて小首を傾げて。危ない。あと一歩で「あれ? ヨリ子ちゃんって本当は学校一の美少女じゃなかったっけ?」と錯覚を起こすところだった。大丈夫、ヨリ子ちゃんは360度どこから見ても完璧なふくふく女子だ。まだまだ顔のシミとかシワの心配はしなくても良い年齢である(この当時は)。年齢的な若さだけではなく、皮膚の下の脂肪が物理的に良い仕事をしてくれているお陰で、パンとハリのあるお顔なのである。そう、パンといえば、このほっぺのまん丸つやつやぶりは、天神商店街の老舗パン屋『あさひなベーカリー』のあんパンと互角とも恐れられており、いや、それ以上だ、いいや待て待て、あっちは食べられるんだぞ? 何を言うか、こっちのほっぺだって食べようと思えば――いや、それは意味が違うやつではないか、みたいな話に発展するほどなのである。


 あんパンは美味しい。恐らく、日本人の90%くらいが好きなパンだと思う。ということは、それに匹敵するほっぺを持つヨリ子ちゃんもまた、日本人の90%から愛されちゃう女子ということになるわけだ。最強のモテ女子がここに爆誕した。

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