5杯目 やはりラブコメなのか?
「……美味しかったね」
「うん、普通に何か美味しかった」
ケーキを食べ終えた郁子と孝明はそんな感想を述べ、フォークを置いた。郁子のカフェラテは空になり、孝明のコーヒーも無料の3杯目を飲み切ったところである。2杯目でやめようと思ったのだが、運よくなのか悪くなのか、暇を持て余していたヨリ子ちゃんが空のカップを見逃すはずもなく、わんこそばよろしくデカンタを持って馳せ参じたのであった。
「そういえば郁、何か言いかけてなかったっけ」
伝票を自分の方に引き寄せた状態で、孝明が尋ねる。その言葉で、郁子が思い出したように「ああ」と言った。
正直に言ってしまえば、何かちょっと満たされてしまっている自分がいる。さっきのちょっと良い感じのラブラブバカップル的空気で満足してしまったのだろう。いまの自分に足りなかったのは、ああいうときめきというか、そういうものだったんじゃないか、とまで考えて。もう少しこういうのを楽しんでからでも悪くない、と。
まぁおそらく、本当に焦っている女性ならば、それはそれ、これはこれ、とデュエル・スタンバイ! となるところなんだろうが、そもそも郁子はそこまで焦ってはいないのである。出来ればしたい、ウェディングドレスってのも着てみたい、ていうか、まず、『選ばれたい』なのだ。乗り換えようと思えば気軽に乗り換えられる『恋人』ではなく、書面でのやり取りがあって、法的なアレコレのある『妻』というものに指名されたい、選ばれたい、あなたは特別な女性なんだよ、という烙印を押されたい。いや、烙印って良い意味のやつじゃないじゃん、と作者は思うわけだが、それくらい郁子もわかっている。わかってはいるけれども、何かこう、押印(婚姻届に)ではパンチが弱いと思ったらしい。そんなことはどうでも良い。
とにかく、最終的に――といってもまぁ出来れば近い将来であってほしい――片膝をついて石付きの指輪が入った箱をパカーンとしながら「僕と結婚してください」的な展開になれば良いのである。良いか、年齢が上がればそれだけ給与も上がるってことだろうから、それに比例してその石のグレードも上がっていくんだぞ、その辺もちゃんと頭に入れておけよ、なんてことを密かに思いつつ。
「うん、まぁ、また今度で良いや」
だから、そんな風に濁した。
とてもじゃないが、けたたましくミシンが稼働しているカフェでする話でもあるまい。さっきは『だだだだだだだ』だったのに、いまは時折『がだっ、がだっ! ががががががが』という音が混ざるのである。一体何を縫っているんだ。大丈夫なのか。大抵の場合、『ががががががが』というのは大丈夫ではないことをここに記しておく(経験者)。
「えっと、それじゃ俺から良いかな」
「は? 何? かしこまっちゃって」
そう言うなり、居住まいを正し始めた孝明に、郁子はどきりとした。そうなると、何か、色んなものが気になり始める。
いつもは財布とスマホと車のキーをジーンズのありとあらゆるポケットにねじ込んでいるのに、そういや今日はめずらしく鞄を持っているな、とか。
よく見たら、髪もワックスできちんと整えられているな、とか。
いま気付いたけど、ポロシャツの胸ポケットが不自然に膨らんでいる気がするな、とか。
もしかして今日の孝明、ちょっと恰好良いんじゃない? とか。
最後のはほぼほぼいま置かれている状況によって誘発された気のせいで片付けられるのだが、とにかくそう思ったのだ。
例え、実際のところは、いつものようにありとあらゆるポケットにねじ込もうと思ったら、どこかのポケットに穴が空いていたためそれならいっそ鞄に入れるか、という事情があったり、その鞄にしても、「アンタは昔っから何でもポッケに入れて! 鞄くらい持っとき! ほら、お母ちゃんエエの買うてきたで!」と母親が無理やり持たせたものかもしれないのだが、彼の名誉のために言っておく、彼の母親は関西から嫁いできたので、作者の書く関西弁はエセですが、エセ関西人ではありません。いや、これ彼の名誉じゃねぇな。
髪の毛にしても、実は毎回セットしているのだが、いかんせん、彼の髪質と技術の問題で、毎回同じ形にならないだけである。今日はたまたま郁子好みに仕上がっただけで、胸ポケットの不自然な膨らみについても、万札を崩すために買った駄菓子が入っているだけだ。
それでも郁子は何かが起こりそうな予感に胸をときめかせている。
だって2人はもう29歳。付き合いも5年。そろそろこの関係が良い方へ変化してもおかしくない頃合いなのである。最も、悪い方へ転がるパターンもあるわけなのだが。
「実はこの間、偶然中学の頃の先輩に街でばったり出くわしてさ――」
一体何の話だ? と郁子は思った。
もしかして、その先輩って女? とも思い、身構えたが、何てことはない、サッカー部時代の先輩らしく、男だった。そういやサッカー部だったっけ、なんてことも思い出す。
「びっくりしたよ、先輩、子ども3人もいるみたいでさ」
へぇ、と相槌を打つ。何だ何だ、この話はどこに着地するんだ? そう思わないでもなかったが、郁子はまだ諦めていない。これが女の先輩だったら、ウフフなことしちゃったんだゴメンナサイもうしません、あるいは、だから別れてくれの可能性もあると思ったが、男の先輩ならばそんなこともないだろう。と書くと、「いやいや、男同士でもそれはそれで――」とソッチのジャンルに明るい方が身を乗り出してきそうなところではあるが、とりあえず落ち着いてください。
とにかくまだ諦めていなかった郁子は「ハハン、さてはそんな先輩の幸せそうな姿に背中を押されてあたしとの結婚を意識したわけね?」と前向きに考え始めた。実際あり得る話ではあるからだ。
「結構大変みたいだよ、奥さんと子どもを養うってさ」
「そりゃあそうだよね」
これはあれかな? だから、君も働いてほしいって? オーケーオーケー、任せなさい。というか、端からそのつもりだったしね?
と、郁子は慈愛に満ちた女神のような笑みを浮かべた。大丈夫、「こんな時代なんだし、養うのが男の甲斐性でしょ!」なんてこと言わないから、と、相変わらず『だだだだだだだ、ががががが、がごっ! ぴぴぴぴぴぴぴ!』というもう絶対何かしらのトラブルが発生している15番テーブルの異音を無視して頷いた。
「だけどさ、先輩、めちゃくちゃ良い車に乗ってて、時計も何か高そうなやつしててさ」
「――うん?」
あれ、何かおかしな流れになって来たぞ、と郁子は思った。あれかな? その先輩、IT社長とかなのかな? えー嘘、俺も起業するとか言い出したらどうしよう。別にいまだってそこそこの会社じゃん? 全国的にはほぼほぼ無名かもだけど、
ちらりとカウンターを見る。
マスターとヨリ子ちゃんが何やら期待に満ちた目でこちらを見ている。もしかしたらあのお客さんプロポーズされているのかも、とか考えているのかもしれない、と郁子は思った。
当たりである。
こっちのケーキもどうぞ、アーン、のシーンをばっちり目撃していたヨリ子ちゃんは、実はこっそりというか、ぶっちゃけガン見レベルでこの2人を見守っていたのである。だからこそ3杯目も逃さなかったといえよう。そして、ほくほく顔でカウンターに戻り、マスターに耳打ちしたのだ。
「8番テーブルさん、これからプロポーズかもしれないです」と。
そうなると、マスターの方でもそわそわしてしまう。
「えっ、どうする? これOKだった場合、ケーキとかサービスするべき?」
「でも、いまケーキ食べたばっかりですよ? 別のにしないと」
「別のって言っても、あとはサンドイッチとか、ナポリタンとか……。あっ、『ワンアポ』でケーキ以外の焼き菓子でも買ってくる?」
ちなみ『ワンアポ』というのは隣の洋菓子店【Once upon a time】の略である。略すと何だか『
「焼き菓子も良いですけど、甘いものばっかりっていうのもどうなんでしょう」
「ヨリちゃん、何か良い案あるの?」
「『肉のよつば』の牛肉メンチとかどうですか? こう、3段に重ねたらウェディングケーキみたいになりません?」
「ううん、まぁ、良い案かもしれないけどさ」
「あっ、私スタンプカード持ってますんで、行くならこれ押してきてください」
「いや、ヨリちゃん、それ、『
「はい、あと5個でハグです。だからお願いします、3個と言わず5個でも6個でも。あっ、でも違いますよ? 私別に、
「いや、それはもう何度も聞いてるから」
などどいうやりとりを、極限までヴォリュームを押さえてしているのである。これに関して、2人はプロなのだ。
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