十三通目の手紙
「一丁の拳銃よ……トカレフ。ああ、でも、その銃がなんであったかなんて、あなた達は私を取り調べてる警察官っていうわけじゃないんだし、どうでもいいわよね」
「なるほど……それで、いったい何をしたっていうのかしら……人でも殺しちゃった?」
まるでその日の夕飯のメニューを当てるかのような軽さで、女王陛下はとんでもないことを言う。この話が、どこまで本当かわからないにしても、それほど穏やかで他愛のない話というわけではないのは確かなのだから、もう少し真剣に取り合ってはどうかと思ったが、僕は黙って聞いていた。しかし、答える相手も同じような軽さで言うのだ。
「鋭いわね。その通りよ。……殺すつもりなんて無かったの。そもそも、その銃は随分古くて、ちゃんと使えるものかどうかさえ怪しかったんだから。ただちょっと、脅かそうと思っただけよ。そうすればやかましい犬は黙るだろうと思ったの」そこで、魔女は一旦言葉を切って、間を置いた。「いや、向こうに言わせれば、やかましい犬は私の方だったでしょうね、お互い様よ。もしかしたら、死んでいたのは私の方だったかもしれないわ。どちらが先にしびれを切らしたか、それが運命を分けたのよ。今こうして生きている私は、運が良かったと言えるのかどうかもわからないけどね。だって、こうして心臓はちゃんと動いていても、生きている心地がちっともしないもの」
調子が出てきたようで、魔女は悦に入って長くなりそうな独白を始めたが、女王陛下がまたしても茶々を入れた。
「ねえ、どうでもいいんだけど、さっきからそういう風に、余計な説明ばかりで、話の核心を遠回しに言うのをどうにかしてくれないかしら。聞いていてまどろっこしいし、理解するのにも時間がかかるじゃない。私、あまり辛抱強い方じゃないのよ」
「せっかちな人間は、逆に損をしているって知ってる?急ぐあまり、いろんなものを取りこぼすのよ」
「大丈夫よ、辛抱強くなくても、せっかちじゃないから」
「屁理屈は結構よ。聞く気があるなら黙ってて」
「はいはい、すみません」
口のジッパーを閉じるジェスチャーをして、女王陛下はそれから黙って大人しく話の続きを聞くことにしたようだ。さて、遠回しで長い話になりそうだが、皆さんも、この魔女の話にお付き合いいただきたい。
「動かなくなったあの女を見て、私の頭にはとりとめもなく、様々な考えが過って行ったわ。最初は、なんてことをしてしまったのかしら、それから、救急や警察への通報だとか、いや、それよりもどうにか隠すべきか……。でも、頭はめまぐるしく回転しても、実際は動けないものなのよね。石像のように固まったままでいたの」彼女の背後で、何かの気配がしたと思ったら、先ほどまで彼女と密談をしていた、共謀者である男が部屋の中から出てきて姿を見せた。魔女は、彼の手を引いた。「私が途方に暮れていたら、この人がね、私を連れて逃げてくれたの。行先は特に決めてなかったわ。どこでも良かったのよ。列車の窓の景色はどんどん変わって、いつしかまったく見覚えのないものになってしまったの。ああ、私は本当に今までの私を捨てなければならないのね。そんな思いと、自分がしでかしてしまったことの恐ろしさがが胸を過ると、知らずに涙が一つ二つと落ちたものだわ。私は彼に尋ねたの、どこまでいくの、と。そしたら、彼は言ったわ、この列車が最後に停まるところ、行ける所まで。そうしてたどり着いた街で、この劇団を見つけたの。どうせ行く当てもなし、気を紛らすにはちょうどいいと思って、二人で見てたのよ。なんだか、パンチ・アンド・ジュディーの人形劇のようで、やっていることはめちゃくちゃだし、筋書きなんて無い、ただのドタバタ劇だったわ。でもそれが、とても自分達に似合いだと思ったの。そこで、私はこの人に言ったわ、できるならば、この劇団に入ってみないか、と。彼は最初は気乗りがしないようだったけど、じゃあ他にどうするというと、何も案なんて出てこないから、そのうちしぶしぶ頷いた。そういうわけで、劇が終わると同時に、これは一体どういう劇団なのかと、あのアヒル男に聞いたのよ。すると、実益を兼ねたただの趣味の延長だ、と、適当なことを言うのよね。演劇の経験などまったくないけれど、この劇団に入るにはどうしたらいいかしら、と、訊ねたら、今度は、入りたきゃ勝手に入ればいいさ、皆そうしてる、と、また適当なことを言われたの。そこがますます気に入って、私達は、彼らと行動を共にすることにしたわけよ。定期的に場所を変えること、舞台に立つにも素顔がわからぬくらいの仮装をして立つわけだから、身を隠すのにも都合が良かった。これ以上の場所は無かったわ。……月日が経って、パンチ人形になりきった私はね、悪魔の前に、まずは罪悪感を滅多打ちにしたはずなのよ。でも、ふとした瞬間に、床に倒れて動かなくなった……そう、ジュディー人形のようなあの女の顔が、脳裏を過ることがあるのよ。そして、彼女の声が聞こえるの。どうして死んだのがお前じゃなかったんだ、って。その度に、私は言い訳のように言うのよ。……引き金を引こうと思って引いたわけじゃないの、偶然の結果なのよ、と。お互いに冷静さを欠いていたから……銃口を向けた私を見て、あの女は恐れをなすどころか、ますます頭に血を上らせて、私に掴みかかって来たのよ。そのはずみで……銃は鼓膜が破れるくらいの音を立てたわ。それで……気がついた時には、相手は血を流して倒れていたの」
「そもそもどうしてそんなことになったんですか」
そう僕が質問をすると、女王陛下が馬鹿にするようにクスリと笑った。勘違いしないでいただきたいのだが、僕だってこの話を真っ向からすべて信じているわけじゃない。おそらくは八割方作り話だろう。
しかし、嘘か本当かは重要なことじゃない。詩人である僕にとって大事なことは、作り話でも、その物語にちゃんと筋があるかどうかだ。
促されて、魔女はますます陶酔した表な表情になり、話を続けた。
「これを話すと本当に長くなってしまうのだけど……どこから話したらいいかしら、そうね、あの女が私のところへやってきた、そこからかしら。そうよ、最初にあちらさんが私を殺さんばかりの剣幕でやってきたのよ。右手に料理に使う麺棒を持ってね、あちこち粉だらけだった。パイを作っていたそうよ。そして、まるでホラーミステリーの小説のような台詞を吐いたのよ。パイの中身はなんだかわかるかい、あんたの肉だよ!……あの女は麺棒を振り上げて私に殴りかかろうとした。でも、不思議と私は冷静だったわ。ああ、ついにこの時が来たのね、そう思っただけ。受けるべき罰は受けましょうと。だから、身じろぎもしなかったわ。それが相手を逆上させる結果になってしまったのだけど……そこへ……」魔女は一度そこで言葉を切った。彼女の傍らにいた出戻りの役者の男が、神妙な面持ちで(初めて、彼がへらへらと笑っていない所を見たように思うが、気のせいだろうか)気遣うようにそっと彼女の肩に手をかけた。彼が、彼女の危機を救ったのだろう。僕はそう話の先を予測した。皆さんもそうだろう。だが、続きをよく聞いてほしい。「……あの女の夫が、自分のコレクションの銃を取りだしたのよ。そして何の迷いもなく、銃口を妻に向かって突きつけた。あの女も、それで一瞬怯んだの。そこで、彼は何て言ったと思う?……お前はそうやって何かを手にすりゃあ、たちまち凶器になる鬼のような女だよ。十年前はまだ可愛げもあったけどな、今じゃすっかりウサギの皮も脱ぎ捨てちまって、面影もない。すると今度は、妻は私のことなどすっかり忘れた様に、手にした麺棒で夫を滅多打ちにしようとする。そうなったのは、誰の所為だと思ってるのよ!ところが、夫はそれを巧みに交わしつつ、こう言い返した。おまえにどんどん可愛げが無くなって行くからだろう!けれど、妻に言わせれば、それはあんたが他の女にちょっかいをかけるからだろう!と、また言い返す。こうなるともう、卵が先か鶏が先かという、果てのない口論になるわけで、三十分ほどは時間を不毛に費やしたかしら。私はそこにいても、テーブルや椅子と変わらないくらいに蚊帳の外だったわ。でも三十一分後には、やはり私もその不毛な争いに混じらなければならなくなったわけ。そりゃあそうよね、当事者の一人であるのに、逃げようだなんて虫のいい話が許されるわけないわ」
「すると……あなたは、その夫の不倫相手であったとかそういうことですか」
「いいえ、違うわ。たしかにね、いろいろあって目をかけてもらってはいたからね」
「ほう……」
これで、大体の設定は出揃っただろうか。ふむふむ、と、僕は納得した唸り声を上げつつ、手で彼女に続きを促した。
「いい加減馬鹿らしくなってきて、こっそりその場を去ろうとした時に、あの女は自分の夫のことを罵りながらも、しっかり私のことを見ていたのよ。おや、どこへ行こうというのさ、パイ生地はあんたのために、まだかまだかと待ちかねているというのに。ぎらぎらと光る眼をこちらに向けて、彼女はそう言ったわ。それから、彼女が手にしていた、鹿の頭のはく製をこちらへ投げつけてきたのよ。叩きつけられた鹿の角が折れたのを見ていたら、もうこちらも黙ってはいられなくなった。そしたら、ふと、自分の足元に都合よく銃が転がっているのが目に入ったの。夫は妻との攻防を繰り返すうちに落としたのね。彼はいつの間にか、妻と同じように、手当たりしだい、そこにあったものを投げつけて応戦していたから。ただのコレクション以上の意味を持たない銃は、役には立たないと思ったのか、或いは、逆上のあまり、銃が本来武器であるというのを忘れてさえいたのか。どっちでもいいけれど、私には幸運なことだったわ。……いえ、後になってみたら、それが不運の始まりだったのでしょうけど、少なくともその時はそう思ったの。そして、上手いことあの女を脅して、黙らせて終わりにしようとした。ここで私を殺して、その肉でパイを作って喰らうのも結構、だけど、それじゃああなたはますます鬼か悪魔になるだけじゃない、私はそうはなりたくないから、もう結構、この人はあなたに返すわよ。私がそう言うと、あの女は今度は手近にあった灰皿を投げつけてきたわ。返事はこう。……いるわけないでしょう、あなたこそ、遠慮なくどこへなりとも好きなところへ、この人を連れて行けばいいわ。なるほど、もうあちらさんも馬鹿馬鹿しくなってきたというわけよ。ここで私と切れたとしても、また別の女がすぐに現れるでしょうからね、死ぬまで同じことを繰り返す価値が、果たしてあるのかしら。いいえ、まさか。……でも、私だって早くこんなことから抜け出したかった。だから、この状況はその絶好の機会でもあったわけ。言うことを聞かない犬でも、飼い主の責任できちんとしつけをすれば、大人しくていい子になるわよ、私はトレーナーじゃないから無理だけれどね。私は、そうやってなんとか説得しようとしたけど、もうあの女も、意思は固かったみたいで……譲らないのよ。いらない、の一点張り。でも、私だっていらないのよ、冗談じゃない。今度は私達が、互いに押し付け合って、切りのない口論を始めることになって……白熱したはずみで……あんなことになってしまったの」彼女はまた、そこで一呼吸置いた。そして、ため息をひとつついてから、まだ続ける。「そもそも、あの人と出会うことがなければ、こんなことにはならなかったのに。運命のいたずらは、そこから始まっていたんだわ。どうしてよ、小さな町の小さな店で、野菜を売っていただけの女に、神は一体何の恨みがあったっていうのかしら。いいえ、わかっている、何の所為でもなくて、ただ私が弱かっただけよ。そう、正しく、好奇心は怪我の元。でも、通るなと言われた道ほど通りたくなる、そんな心理に逆らえなかったの。でもね、きっかけは些細なこと。ただあの人が毎日トマトを買いに来ていた、それだけよ。本当につまらないことでしょう。でも、そんなことでも、大惨事の種にはなり得るのよ。火事はほんの一片の小さな火の粉が飛び火して大きく広がる。そういうものよ。……犬の散歩の途中でうちの店に寄って、いつもトマトを五つ買って行くの。それ以上もそれ以下も、他の物もなく、きっちりトマトを五つだけ。ずっとそれが気になっていてね、ある時訊ねてみたの。どうしていつもトマトが五つなんですか。私が覚えていたことを彼は、少し照れくさそうに喜んでいたわ。そして、こう言ったの、プレゼントなんです…って。まあ、素敵ですね、どなたへの?余計なことだと思いつつ、また一つ、私は彼に訪ねてしまったわ。そうすると、嫌な顔をせず、彼はこう答えてくれた。うちの犬のですよ、トマトが大好物なんです。トマトが好物なんて、しかも毎日五つも食べるだなんて、変わった犬だと思ったわ。だから、気の利いた冗談だと思ったの。そしたら、あの人は言ったのよ。冗談ですよ、ただ、あなたに覚えてもらうために、毎日同じことを繰り返していただけです、おかげで家にはトマトが冷蔵庫に入りきらなくなって困っています。……それから私達は、店以外でも会うようになったのよ。今にして思えば、彼の甘い言葉は毒でしかなかったし、私に触れるその手はナイフでしかなかったのにね。それを知らずに、すっかり私は愛されている気になってしまったのよ。でも、いつまでも秘密を隠しておけるはずがないの。私は、彼が結婚をしていることを知ってしまった。彼の妻……あの女と、鉢合わせしてしまったのよ。向こうも、私がどういう存在なのかすぐに察したようだったわ。それなのに、何も言わないのよ。まるで黙認しているかのように。そのおかげで、残酷な現実を知っても、目が覚めることはなかった。私は彼との関係を立ち切れずにいたのよ……」
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