第18話 恋のため息


「二百八十円になります」


 レジの画面に表示された数字をあたしが読み上げると、スーツ姿の男性は本革のビジネスバッグを取り出して中から同じ本革の長財布を取り出した。焦るでももたもたするでもなく、その滑らかな動作はこの人の人間性を表している気がした。


「これでお願いします」


 渡されたのは三百円。受け取るとその硬貨は微かに濡れていて光を反射させていた。


「二十円のお返しになります」


 手渡したお釣りを、男性は包み込むように受け取ってくれた。


「ラッピングはされていきますか?」

「そうですね。お願いしてもいいですか?」

「かしこまりましたっ」


 あたしは裸でレジカウンターに乗っかる赤い小さな薔薇を手に取る。


 花というのは不思議なものだ。あたしはこの男性とは初対面だから、当然境遇なんて分からないし、どういう人なのかだって分からない。


 だけど、きっとこの人はこれから大切な人に、とても大事なことを伝えようとしているんだと分かってしまう。


 あなたを愛しています。


 赤い薔薇の花言葉だ。


 あたしはちょっと気を利かせてみることにした。いつもは縞々模様のどこぞのデパートのような包装紙で花をくるむんだけど、今回はギフトに使う赤い紙袋をハサミで小さく切り取って、ハートのシールで止めてみた。いい感じにシンプルで、我ながらいい出来だと思った。いつも使ってるのはちょっとカジュアルすぎる気もするから、気持ちを伝えるのであればやっぱりシンプルオブザベストだよね。


「素敵ですね」


 それを見た男性は顔を綻ばせ、自分の気持ちがバレてしまった恥ずかしさからか頬を赤く染めていた。


 隙間が開いていないか確認すると、最後にリボンを緩めに絞めて完成。両手で優しく持ち上げて男性に渡す。


「頑張ってください」


 あたしがそう言うと、男性は再び照れたように笑って見せた。


 男性が、決して離すまいと花を胸の前で抱きかかえる姿はまるで赤ちゃんをだっこするお父さんのようで。この人の幸せな未来が容易に想像できてしまっていた。


「ありがとうございました」


 あたしが言うよりも先に、男性は深々と品のあるお辞儀をした。続けてあたしも言う。


「ありがとうございました」


 そうしてレジから男性の後姿を見送る。さっきまでの流暢な動作からは考えられないほどに男性はどこか浮足立っているように見えた。緊張しているのかな。


「告白かなぁ」 


 男性が購入した薔薇は三本だった。薔薇には色だけでなく本数にも意味があって、三本は確か告白だ。ちなみに一本は一目惚れ。そして百八本は結婚してください、だ。


 もしさっきの男性がもう一度ウチに来てくれて、薔薇を百八本購入していったら、その時はおめでとうございます、と言ってあげよう。そう思った。


「ふぅ」


 時刻は六時四十五分。ウチの閉店時間は七時なのでそろそろ閉める準備をしなければならない。この時間になるとお客さんは全くいなくなる。明日の朝食を急いで買いに行くスーパーならまだしもウチは花屋だ。道行く学生達が外に並べられた宣伝用の花を見てキャッキャとはしゃぐだけで店内には誰も入ってこない。


「・・・・・・来なかったな」


 あたしの待ち人はついに来ることはなかった。


 今思えば、行けたら行くだなんてセリフは行かないときの常套句だ。そんなことにも気付かなかったなんてあたしどんだけはしゃいでたんだ。


「はぁ・・・・・・」


 レジを開いて一つ溜め息。今日一日のレシートを印刷して、それと実際にある金額を照らし合わせて誤りがないか確認する。会計時に渡すお釣りを間違えちゃったりするとよくここで合わないなんてことになる。今日のあたしは・・・・・・もしかしたらどこかで間違えてしまっていたかもしれない。ちょっと浮かれていたから。


 はぁ、と。もう一度溜め息。この短時間で二度も溜め息なんて。


 すると後ろに人の気配。


「恋の溜め息ね」


 わざわざ後ろを見なくても分かった。いつものようにお母さんが花に被せる用の網と、虫除けの薬を持って店に出てきていた。


「なに、それ」

「柚子の花言葉よ」

「それは知ってる。もう何回も聞いた」


 お母さんはあたしが溜め息をついているのを見ると必ずこう言ってくる。


「今日はありがとね。あとはお母さんやるから柚子は部屋に戻っていいわよ」

「うん? うん。うーん・・・・・・」

「なによ唸って」

「別に、あたしまだレジ番やってるよ。誰か来るかもしれないし」


 するとお母さんは「あら」と不思議そうに、だけどちょっと嬉しそうな顔をした。あたしはいつもこういう時は「やっと終わった~」とそそくさと部屋に戻るのでびっくりしたのかな。


「もしかして、誰か待ってるのかしら?」

「んっ!?」


 図星だった。変な声を出してしまったあたしはコホンと咳払い。


「たっ、たまには最後までお手伝いしようかなぁって思っただけ」

「そうなの? でも、薬の撒き方まだ分からないでしょ?」

「まぁ・・・・・・」

「今度教えてあげるから、とりあえず今日はいいわよ。ありがとう」


 そう言われてしまっては仕方がない。これ以上食い下がったらさすがに怪しまれるのであたしは大人しく退散することにした。


「んんーっ」


 部屋に戻るとピンクの壁紙と緑のカーテンが視界に飛び込んでくる。あたしはそのままふらふらとベッドに倒れ込んだ。ちなみにこの部屋の色は花弁と茎をイメージして配色してある。我ながらセンスのいい部屋だと思うし友達からの評判も中々だ。最近、土をイメージしてカーペットを茶色にしたんだけどこれはまだ誰からも評価を頂けていない。見慣れてしまったからか、ちょっとやりすぎたかなと思ってはいる。まぁこれは評判が悪かったら変えちゃうつもり。


「部屋、片づけたんだけどな」


 三時間ほど前に撒いたスプレーの匂いが微かに香る。部屋のレイアウトもなるべくすっきり見えるように整理したし掃除機もかけた。理由は、勿論決まっている。


「恋の溜め息かぁ・・・・・・」


 それは柚子の花言葉。あたしと同じ名前の黄色い果物だ。 


 柚子って名前は可愛いと思うし結構気に入っている。でも、お母さんが花言葉を知っている上であたしにつけた名前だと考えると、少し意地悪な気がしないでもない。


 だって、恋の溜め息って結局その恋は成就するの? いつも悩んで、悩むだけ悩ん

で、それで終わりなんじゃない? どうせならもっと・・・・・・うん、そう。アイビーなんてどうだろう。永遠の愛。うん、すごく素敵。ブルースターもいい。幸福な愛。でもあたしは日本人だから難しいか。じゃあなでしこなんて、どうだろう。純愛。でもあたしには似合わない気がする。


 そうすると、やっぱり柚子が一番合ってるのかな。叶うかどうかも分からない恋に悩む少女の溜め息。この称号を一生涯背負わなくてはならないと考えると少し恐ろしくも思えた。


 あたしはボフンと反動をつけてベッドから転がり落ちて窓際に佇む緑の植物に話しかけた。


「ねぇ、あんたはどう思う? 柚子の花言葉」


 しん。


「やっぱり希望薄なのかな」


 しん。


 静寂な部屋にあたしの声だけがこだまする。


「・・・・・・水、あげるね」


 すぐ横に置いてある栄養水が入っているスポイトを土に差してあげる。


「土ももうそろそろ変えた方がいいね」


 見ると若干湿り気が強すだのか固まっている箇所がいくつか見受けられた。きっとこの子はこんな些細なこと気にもしないだろうけど、やっぱりできることはしてあげたい。


 水をあげたついでにその子のてっぺんを見てみる。


「んー、まだ咲かないか」


 鉢の中には緑と茶色しかない。あたしの求めた色はいまだに現れないままだ。


「もう、五年だよ?」


 この子を育て始めたのは五年前。確か小学五年生の時だった気がする。クラスに好きな男の子がいて、その子の名前ととてもよく似ている植物が近くの花屋で並んでいるのを発見して、お小遣いで買ったのだ。お母さんも最初はちゃんと育てられるのか心配していたようだったけど、「その子なら大丈夫ね」と言って許してくれた。


 そう。この子はすごく立派。水をちょっとあげさえすればあとは自分の力ですくすくと育つ。


「偉いぞこのこの」


 まるでペットをあやすようにその子を撫でてやる。するとその子は、びっしりと装飾された棘であたしの指を突っぱねた。


「あー、そういうことするんだー」


 この子は昔からあたしに対して反抗的だ。でも、その棘は別に痛くはない。触ってみると意外とプニプニしている。接触してくるものを完全に拒んでいるわけではない。なんていうか・・・・・・外見だけで見れば俺に近づくなオーラを出している癖に実際触ってみるとこの通りへにょへにょで、むしろ可愛いまである。そんな悪役に徹しきれていない不器用な目の前の植物を見ると可笑しくて顔が綻んでしまう。


 それに、あたしはもう一つ、この子の魅力を知っている。


 まん丸に閉じ籠って柔らかい棘で威嚇するこの子も、実は中には蕾があって、綺麗な花を咲かせることがあるのだ。


 でもそれは簡単なことじゃなくて、気温とか湿度とか。もうありとあらゆる条件を満たしてあげてそれはもう至れり尽くせりで、一日中気を配っていないといけない。普通に育ててもこの子は枯れないけど、そんなお節介とも言えるほどに世話を焼いてあげないと花は咲かないのだ。


「ねぇ、いつになったら咲いてくれるの?」


 あたしだって、世話は上手な方じゃない。きっと慣れないことをしたものだから、強引だったところも多少はあったかもしれない。空回りしていたこともあるかもしれない。


「あたし、もう待てないよ・・・・・・?」


 でも。それでもあたしはこの子と一緒に居たい。歪な関係だったとしても、あたしは見ていたい。ううん、嘘。触れていたい。抱きつきたい。仄かな温もりを感じたい。君は素敵だよって言ってあげたい。自分で思ってるよりもずっとずっと素敵な花なんだよって。


 だから、この子が花を咲かせるまではきちんと世話を焼かないと。


 あたしはおもむろにスマホを開いた。連絡は、三件。クラスの友達から週末に遊びに行かないかという誘いと、いつだったかに登録したコミックサイトのメルマガ。最後は・・・・・・通販サイトで使えるチケットの有効期限のお知らせ。


 彼から連絡は着ていなかった。着ていないということは、そういうことだろう。あたしがした約束を約束だと思っていない。友達同士がよくするノリに任せたその場限りの口約束。ニヤける顔を隠しながら廊下を歩いて、外に出たらスキップして、部屋に着いたらその汚さに絶望して、汗を流しながら急いで片づけをして。そんなことしてたのはきっとあたしだけだ。


「佐保山・・・・・・」


 その言葉は、我慢できずに口から洩れた。あぁ、言ってしまった。そうするともう止まらないのは自分でも分かっている。


「佐保山、佐保山」


 足元に落ちてるクッションに顔を埋める。そんなあたしをきっと窓際に置いた緑の植物は虚ろ気に見下ろしているのだろう。


「さぼやまぁ・・・・・・」

 

 縋るような声を出してしまう。温もりを求めてしまう。


 今、佐保山は何してるんだろ。また、ゲームかな。それともアニメ? 佐保山はいわゆるオタクって奴だから。


 前にスマホの待ち受けを野球選手にしているのを見た時は笑ってしまった。安いカモフラージュ、バレバレだよ。


 いいのに。別にあたしはオタクだなんて気にしないしイジるつもりもない。


 クッションが段々と濡れてきた。いけない。あたし、なに泣いてるんだろう。悲しくもないのに、どうして涙は出るんだろう。あぁそうか。きっと心配なんだ。そしてその心配事は妙に現実味を帯びていて、いざ実際に起きた時のことを考えると切なくて、それで泣いちゃうんだ。


「あたし、五年前からなんにも変わってない」


 口下手で、思ったことを伝えられない。周りの空気に操作され結局虚な仮面の言葉を諂うしかできない弱い生き物。好きなのに、嫌いと言ってしまった小学五年生の春。茶化されて、クラスの雰囲気にあてられて、周囲の目が自分に集まる羞恥から逃げるために吐いてしまった告白された事実。


 初めて人に、佐保山天という男の子に恋をした時から何も変わってはいない。


 そして、花屋を経営するために引っ越してきたあたしは、こっちの高校に入って、佐保山とまさかの再会。小学校で、佐保山にしてしまった仕打ちが軽いトラウマになっていわゆる暗い子状態だったあたしだけど。よしやるぞ、と気合いを入れるように髪を染めることでなんとか自分を変える努力をした。


 結果は、一応変わることはできた。言葉遣い。ファッションのセンス。化粧。所属するグループとクラス内でのカースト位置。髪を染めただけで色んなことが変わった。


 だけど、今日分かった。内側は、何も変わっていなかったのだ。


 朝、みんなが佐保山のことをバカにして、あたしは本当につらかった。胸が張り裂けそうで。じゃあ「佐保山のこと悪く言うのはやめて」って言えばよかったのに。あたしは何も言わなかった。


 佐保山は強いから黙ってたけど、きっと嫌な気持ちだったに違いない。それは勿論、あの子たちに対してもそうだし、何も言わずに顔を下に向けて事態から逃亡していたずる賢いあたしにも。


 ごめん。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。


「佐保山は、変わったのに」


 あたしのおかげ、だなんて言うつもりはないけれど。それでも最近になって佐保山は変わった。前まではどこか人と関わることを拒絶して壁を作っていたように見えたけど、今は違う。人が寄り添えば困った顔はするけど、嫌な顔はしなくなった。あたしの友達も、佐保山のことをイケてるなんて冗談半分、だけど本気半分でも言っていた。


 それに、紫苑ちゃん。彼女はきっと佐保山のことが今でも好きだ。それは間違いない。だって分かるから。同じ人を想う者同士の勘、ってやつ。


 佐保山も、紫苑ちゃんのことは前から多分、心のどこかでひっかかりがあったんだと思う。だからちょっときっかけを作って、背中を押してあげれば、あとは自分でなんとかするはずだ。ううん、前に駅で紫苑ちゃんと会ったって話もしてたし、あの二人がよりを戻すのも時間の問題かもしれない。そうしたら、あたしはもう佐保山に近づく理由がなくなってしまう。もう、関りがなくなってしまう。


 少々強引すぎた感は否めないあたしと佐保山の不完全な関係性。額に傷をつけて面喰らった顔であたしを見る佐保山の顔を思い出す。


 高校の入学式で佐保山を見た時、実はあたしも同じような顔したんだよって言ったら、佐保山は笑ってくれるかな。


「あたしのバカ」


 こんなに想っているなら言えばいいのに。簡単だ。「あの時はごめん」って、謝ればいいのだ。何食わぬいつもの顔で、からかうように「ほんとは好き」って言ってあげればいいのだ。


「好き」


 半渇きのクッションを握りしめ小さく呟く。


「好き」


 そして大きく。


「大好き」


 でも、その言葉は一人っきりの部屋の壁に何度も何度も跳ね返り、消えた。


 分かってる。こんなこと、言えるわけがないって。今まで何回も言おうとした。テンパっちゃって、いきなり押し倒して、そのままキスもしようとしたこともあった。でも、やっぱり言えない。佐保山の顔を見ると、安心してしまうから。本当に、一緒にいるだけで、幸せを感じてしまうから。だから、このままでもいっかって自分の勇気を押し潰してしまう。


 それよりも、もう一緒にいられなくなってしまうことのほうがずっとずっと怖いから。


「難しく考えすぎ、かぁ・・・・・・」


 佐保山に言い放った言葉が特大ブーメランになってこちらへ戻ってくる。


「いや、難しいよこれは」


 自嘲気味に肩を落とす。


「柚子ー!」


 そんな時、店にいるお母さんがあたしを呼ぶ。


「なにー?」

「友達! 来てるわよー!」


 えっ!?


 心臓が跳るより先にあたし自身が跳ねていた。一度扉を開けて、「あっ!」ともう一度部屋に戻る。大きな鏡の前で自分の姿をチェック。寝転がったことにより潰れた後頭部の髪をくしでふんわり浮かして他の場所も綺麗に梳く。前髪を何度も何度も、何ミリの微調整を繰り返してベストな位置に持っていこうとする。だけど、中々上手く決まってくれない。そんなことより「どうしようどうしよう!」という思いでいっぱいだ。


 誰も佐保山が来たなんて言っていないのに。あたしって単純だ。


 次に着替え。部屋着で行くのは恥ずかしい。クローゼットにあるあたしの最高戦力である精鋭達の中から落ち着いた色のものを選び急いで着る。


 しわ、ないよね?


 くるりと回転。うん、後ろも大丈夫。


 最後に窓際のあの子に布を被せてあげる。ごめんね、今だけはちょっと隠れてて。


 そうするとあたしは部屋を出て階段を降りていく。


 さっきまで泣いていたのに。


 嬉しいのが止まらなかった。


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