胸騒ぎ

「なんや、しょおもな。ほんでオ○コもせんと帰してもうたんかい」

 田辺は本気で呆れた表情を浮かべた。草野は田辺と一緒に、久々に喫茶フロイラインで駄弁っていた。その時、ポートピアでの出来事を話していたのである。

「そんな、お客さんのお嬢さんですよ! 出来るわけないじゃないですか!」

「ほんでもキスはしたんやろ」

「うぐ……」

 田辺に自己矛盾を指摘されて草野は言葉を失った。

「女期待させるだけさせといて、何もなしかい。そら男としてどうかと思うで。……あ、少年、もしかして童貞か?」

 草野は湯気が出るほど顔が真っ赤になった。そのリアクションが田辺の問いを肯定していた。

「しゃあないなあ……そんなんで彼女出来た時どないすんねん。の女は経験豊富やからな、ろくにオ○コもでけんような男は即刻フラれるで」

「……どうしたらいいんですかね」

「どこでもええから、とにかく童貞捨てに行くこっちゃ。まあ筆下ろしは飛田か信太山ってとこかなあ……何やったら、連れて行ったろか」

「……いえ、遠慮しておきます」

 草野はこれ以上この話が続かないように、無理矢理話題を変えた。

 草野とて、あのまま美優を帰したことを、もったいないと思わなかったわけではない。事実、彼女との妄想は毎晩草野のとなっていた。それにしても今頃どうしているだろうか、と草野は気になっていた。当時は携帯電話もなく、人知れず個人と個人が連絡し合える手段がなかった。とは言え、美優と連絡を取るために澤村家に電話するのはどうにも気が引けた。いったい美優はあの日のことを父親にどう話したのだろう。どうにも気になって仕方がないが、澤村から連絡がないところを見ると、彼女は父親に草野とのことを話していないのだろうと察しがつく。しかし……やはり正直に話した方がいいかな、と草野は毎日思い悩むのであった。


 そんなある日、思わぬところで澤村自転車に連絡する機会がやってきた。班長会議を終えた沼田が、草野に怒鳴りつけて来たのである。

「おい草野、澤村自転車どないなっとんねん!」

「……どないなってると言いますと?」

「契約してからひと月くらい経つのに、まだ商品搬入してへんらしいやないか!」

「それは……委託がダメだと言われたので卸に変更してもらったんですが、資金が出来るまで待ってほしいと……」

「そんで電話が来るまでほったらかしかい、アホンダラ! 慈善事業ちゃうんや! キッチリ催促して追い込まんかい!」

 沼田の言い草には腹が立ったが、草野としては澤村家に連絡する機会となって好都合だった。早速澤村自転車の番号をプッシュしたが……

「お客様のお掛けになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめになった上……」

 草野は掛け間違えたかと思った。当時の電話には番号表示機能がなかったので、間違い電話は良くあることだった。慎重に番号を確かめながら掛け直したが、結果は同じ。念のため澤村家の自宅の番号にも掛けてみたが、やはり同じアナウンスが流れた。

 いったい澤村家に何があったのか。草野は胸騒ぎがしてならなかった。


 澤村自転車までやって来た草野は唖然とした。家屋の窓という窓は割られ、店のシャッターは無理矢理こじ開けられたように破損していた。そして至るところに「金返せ」「借金ドロボー」などの張り紙がしてあった。

「おたくも債権者の方でっか」

 振り向くと、半袖のカッターシャツを着た初老の小男が話しかけていた。

「ええ……そんなところです」

 商品を納入していなかったので、実際には債務は発生していなかったが、草野はとりあえず話を合わせた。

「ホンマたまりまへんな……何も夜逃げなんかせんでも、破産してくらはったらよろしいのに」

「夜逃げ……したんですか?」

 小男は首を縦に振る。

「ここ数日でガラの悪い連中が来るようになりましてなあ、『カネ返さんかいコラ』と大声で叫んだり、石投げ込んだり、ホンマやることメチャクチャでしたわ。……ぶっちゃけた話、近所でも迷惑しとったんです。ほんで、チンピラには嫌がらせされるわ、近所からは白い目で見られるわで、たまらんくなって逃げ出したんでしょうな」

 小男はやれやれと肩をすくめて去って行った。その後、草野は壊れたシャッターの隙間から中に入ってみた。店舗には商品の自転車がなく、金目のものはみな借金取りに持ち去られた様子だった。

 靴を脱いで住居エリアに足を踏み入れてみる。ここでも色々な物が持ち去られていたが、草野が調律した、あのピアノはまだ残っていた。さすがに簡単には持ち出せなかっだのだろう。蓋を開けて、弾いてみた。調律が狂わずに保持されていたのが、妙に切なかった。

 しばらく弾いていると、何やらカシャカシャという雑音がするのに気がついた。何か異物が混入しているのかと、外装を開けてみた。すると、ピアノの中に一通の手紙が入っていた。しかも、封筒には「草野さんへ」と書かれていた。草野ははやる気持ちを抑えながら封筒を丁寧に開いた。中には一枚だけ便箋が入っており、そこにはこう書いてあった。

「草野さん、お元気ですか? 突然いなくなってご迷惑をおかけしたこと、お詫びします。そして、調律してくれて、一緒にポートピアに連れて行ってくれて、本当にありがとうございました。最初に草野さんがやって来て調律するって言ってくれた時、この人は私を救い出してくれるって思ったんです。だから本当は、ポートピアに行った時も、この人に全てを捧げてもいいと思っていたんです。でも、観覧車でキスされて急に怖くなって、あんなことしてしまいました。すみません、でも嬉しかったです。私はこれから父とは別々に、安全なところへ行って暮らします。しばらくピアノも弾くことは出来ませんが、音楽の道はあきらめません。いつの日か、また草野さんの調律したピアノを弾きたいです。それでは、どうかお元気で。お仕事も頑張って下さい。澤村美優」

 草野は手紙を読み終えると、それを譜面台の上に置き、またピアノを弾き始めた。そして、白鍵の上にはポツポツと涙がこぼれ落ちた。

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