第170話
それが孵化したとき、リィメイはちょうどテントの中でイロニカと雑談をしていた。
何と言うこともないいつもの雑談は、突然のサイレンに中断を余儀なくされることとなった。
黒繭が孵化兆候を見せたのだ。
「……ついに来たわね。イロニカ、あとは任せるわよ」
「かしこまりました」
それだけの短い会話を済ませると、リィメイは椅子から立ち上がりテントを出ようと杖をコツコツと突きながら歩き始めた。
腰の曲がり始めたそんなひ弱そうな老人の後ろ姿には、僅かな哀愁が漂っていた。
少し、嫌な予感がした。
「リィメイ学長!」
イロニカは何か言わなければいけないという焦燥感に駆られ、慌てて声を掛けた。
それでもリィメイはこの緊急事態に足を止めるわけにもいかず、ただ一言小さな声でイロニカの不安を拭い去ろうと言った。
「大丈夫よ、私はこれでも零級探索師なのだから。最後まで役割は果たすつもりよ」
今にも消え失せてしまいそうなほど、本当にか細い声だった。
それが返ってイロニカに不安感を募らせたのだろうか。
「お気をつけて」
「えぇ、まだひ孫の顔を見るまでは死ねないわ」
その会話を最後に、リィメイはテントを去っていった。
テントの外は途端に騒がしさを増し、ここに滞在していたプロ探索師たちが一斉に行動を始めているのがわかる。
事前の作戦通り、皆がそれぞれの立ち位置につくために最善の行動を取っていることだろう。
どんどんと騒がしくなっていく外の喧騒に駆られ、イロニカもようやく動き出す。
「私も自分の役割を果たさなくては」
責任感の強いイロニカらしい自己暗示と同時に、手際よく自分の仕事を始める。
イロニカ=モンモンは一級探索師のライセンスを持つ、プロの探索師だ。
彼女の持つ一等級天職《カウント》はよく非戦闘系天職と言われるが、実際には戦闘系のスキルも有する曖昧な分類に入る。
ただやはり、その天職の特筆すべき能力は「逆算からの総指揮」である。
手早くタブレットを操作していくイロニカは操作を終えると、耳元に飾られるように着けられたイヤーカフ状の翻訳機『オレリア』へと手を伸ばす。
そこに隠された一つの小さなボタンを細い針で押すと、一つの緊急機能が起動する。
『緊急警報が発令されました。マジョルカに滞在する探索師はただちに準備を始めてください。繰り返します――』
それはマジョルカ国民全員に配布されている翻訳機『オレリア』から発せられた無機質なAIの緊急信号であった。
その無機質で緊急性を感じさせる声は、マジョルカ内に滞在するプロ探索師全員の耳元へと届いた。
オレリア緊急信号『黄色』。
元々オレリアはこのような緊急事態に対応するために作られた機械であったが、そこに国民全員への配布を目指す目的で後から翻訳機能が足された機器である。
そのためにオレリアにはいくつもの緊急信号が内蔵されており、その信号はダンジョンの階層関係なく装着者に送られる機能を持つ。マジョルカが技術力を集結して十数年かけてようやく完成させた、緊急信号機器だったのだ。
このオレリア緊急信号『黄色』は、マジョルカ内に滞在するプロ探索師、マジョルカ・エスクエーラ教員、一部の許可された人たちだけに送信される緊急信号のことだ。
この信号をキャッチした探索師たちはただちに、準備を整えなければならない。
いつでも戦闘できる準備を、だ。
そこにはこのような文言も付け加えられている――国民に緊急性を悟られてはならないと。
パニックを起こさせないように、密かに彼らは準備を始めていくのだ。
そんな緊急信号『黄色』をイロニカは発令した。
これが彼女の最初の仕事、ここからは彼女も戦場へと赴く。
「私も頑張らなければいけませんね」
彼女なりに、自分へと発破をかけるように呟くと戦場へと向かった。
その役割はこの階層及びマジョルカ全体の指揮を執ること。有事の際に手際よく対応して見せることが彼女に任されたリィメイからの指示であった。
「リィメイ学長!?」
そして今――。
イロニカは最悪の事態を目にしてしまった。
いともたやすく、まるで石ころのように蹴り飛ばされていく彼女の師、リィメイの痛々しい姿を。
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