第73話



「ん~、終わったぁ!」


 隣の席に座るパインは座り疲れしてしまったらしく、講義中何度もむずむずと太ももを動かして、自分で自分のお尻を揉んでいたのをテンジはその目でしっかりと見ていた。

 シュルツ先生が教室からいなくなると勢いよく立ち上がって、大きく背伸びをした。


 マジョルカエスクエーラは一日で二つの講義がある。

 土日、祝日を除く日の午前八時から講義が始まり、一講義115分で構成されている。その講義時間は高校生にとっては少し長く、ずっと座っているとお尻が痛くなってしまうのだ。そして15分の休憩を挟んで、次の講義「ダンジョン実技演習」が始まる。


「ほらっ! テンジも行こ!」


「うん、ちょっと待って。さきにトイレで着替えてくるよ」


「今日もインナースーツ着てきてないの?」


「うん、ちょっとこのダンジョンって暑くて、朝からインナースーツは日本人にはキツイんだよね。もう少し涼しかったら朝から来ても大丈夫なんだけどねぇ」


「へぇ~、日本人って軟弱なんだね。早くしてね~」


「うん、ごめんね。行ってくる!」


 テンジは慌ててバッグの中から青いインナースーツを取り出して、近くにあるトイレへと向かう。

 一応更衣室はあるのだが、一年生の教室がある一階には存在せず三階にあるためトイレで着替えちゃった方が早いのだ。


 それにこのマジョルカリゾートダンジョンには面白いことに、階層ごとに四季や気候が異なる。

 第一階層は雪がしんしんと降り積もる冬、第二階層はふんわりと爽やかな風が吹く春、第三階層はじっとりと日本よりも少し気温の高い夏、第四階層は木々が紅葉して次の冬を感じさせる秋、第五層は一年中弱めの雨が降り続ける梅雨のような季節。

 それ以下の階層では、色々な季節や気候条件が備わっている。


 だから、学園のある第三階層では毎日真夏のような日照りが燦燦と輝き、テンジにとっては少し蒸し暑い気候に感じていたのだ。

 ここに来てまだ一週間、さすがに体が慣れてはいなかった。


「さっさと着替えちゃおう」


 トイレに入ろうと扉に手を掛け、そこでテンジは扉を押し開くのを止めた。

 扉越しに、テンジと同じクラスである男子二人――金髪イケイケな細マッチョのジョージ・マクトイーネ、アシンメトリーなオールバック前髪のデミリア・ガルシア――の声が微かに聞こえてきてしまったのだ。


 テンジは反射的に、扉から手を放して近くの壁に背中を預けた。そのまま息を潜めて、静かに彼らがいなくなるのを待つ。

 その間にも無駄に声のデカい彼らの会話は、テンジの耳に届いてしまう。


「パインはなんであんな日本人と関わるんだろうな」


「あ~、それな。個人推薦の、それもダンジョン国家の日本からって聞くからどんな凄い奴が来るんだと思ってたら、五等級天職の《剣士》なんだよな?」


「らしいな。なぜあんな没個性がここに来れたのかさっぱりわからないな」


「しかも、あいつ……千郷と一緒に暮らしているらしいぜ? イエローの分際でな」


「は? ……それはまじなのか? 千郷があんなイエロー剣士と一緒に?」


「って、パインが言ってたぞ。だからたぶん、推薦枠も千郷が用意したんじゃないか?」


「ちっ、みんなの千郷を独り占めにしようってか……五等級の分際で」


「止めとけ、止めとけ。ここはアメリカと違って報復が好まれない国の風習だ。お前の学園生活に亀裂を入れたくはないだろ? 俺たちだって、ようやくここの切符を手に入れたんだ。このまま下手な行動で手放してたまるかっての」


「そうだな。確かに、もうあんな養豚場みたいな施設に逆戻りは嫌だな。そこら辺の田舎でコーンでも作ってた方が数倍マシってもんだぜ。でもなぁ……千郷を独り占めなんて許せないな」


「あはははっ、千郷は人気だもんな。可愛いし、スタイルいいし、いい匂いするし、超強いしね。イエロー剣士には不相応だっての。ママのおっぱいでもしゃぶりに、国に帰りやがれ」


「本当だよ、あんないい女は世界を見てもそうそういない。悔しいが……俺の初恋は千郷だぜ。完全な一目惚れってやつだな」


「それを言うなら、ここの男子生徒全員が一目惚れしてるっての」


 そこまで聞いて、テンジは少し先のトイレへと足先を変えたのであった。


 別にこういう陰口やなんかには慣れているので大丈夫なのだが、この状況をどうにかできないものかと考える。他者から見ればこう思われているのも、テンジにあまり友達ができない理由の一つでもあった。


 そもそもこのマジョルカエスクエーラでさえ、テンジの特級天職《獄獣召喚》は証明できないし、千郷やリオンからも「あまり人目の付く場所で能力を使うな」と言い含められている。

 千郷と、とあるもう一人の前だけではこの能力の制限を外して、思うがままに使ってもいいことになっているくらいだ。


 少し遠くのトイレの個室で手際よくインナースーツを制服の中に着て、上から再び制服を着る。

 そうして駆け足で教室へと戻っていくのであった。


「ごめん、ごめん、パイン!」


「もう、遅いよ! 遅刻しちゃうじゃない!」


「そうだね、走ろっか」


 教室でしびれを切らして待っていたパインに苦笑いしながら頭を下げつつ、テンジは一緒に持ってきていたアイアンソードの入った武器袋を肩にかけ、パインとともに集合場所に向かって走り出すのであった。

 その道中で、パインにおじさんのサンドウィッチを買う約束をさせられてしまう。どうやらパインはあのサンドウィッチを大層気に入ったらしい。



 † † †



 ――トュレースセントラルパブロ街、噴水広場。



「それじゃあ、いつも通りの班に分かれて実技演習の開始だ。今日は第8層と第9層辺りで演習を行うように。その後は適当に解散だ」


 このダンジョン実技演習の講義には、かなり多くの講師が出席している。

 そもそもこの講義はクラスごとではなく、学年ごとに隔日で行われる。そして一人の生徒に対し、三年生以上の上級生が一人と教師が一人付くことに決まっている。

 一学年で最大45人の生徒が在籍しているため、必然と集合場所には40名近くの教師たちが集まることになるのだ。


 この講義で学ぶのは、ダンジョンでの立ち回り方についてだ。

 下級生は、上級生と教師のサポートを受けながら入門的な指導をマンツーマンで受ける。上級生はなるべくサポートなしでモンスターと対峙する術を学ぶ。

 そして教師はそれぞれの生徒に応じて、柔軟なモンスターや立地を選んで生徒の成長を促すことが推奨されている。

 要するに、教師と一対一の個人指導が受けられる講義なのである。


 このような講義が二日に一度行われるのも、マジョルカエスクエーラが人気の理由の一つなのだろう。


「じゃあ、あとでね、パイン」


「うん、怪我しないでね~」


 パインは元気よく手を振ると、少し先にいたパインの専属教師がいるところへと小走りで向かっていった。

 テンジはすぐ近くで待っていてくれた二人の人物の元へと進んでいく。


「千郷ちゃん、冬喜くん、お待たせしました!」


「ほいほ~い、今日も張り切っていきますかぁ!」


「うんうん、やっぱり日本人同士って落ち着くよね。よろしく、テンジくん」


 もちろんテンジの担当教師は白縫千郷である。

 教師は生徒自ら指名することもでき、教師から生徒を指名することもできる。特に希望がない場合や教師や生徒間で都合が合わなかった場合だけは、学長が直々に組み合わせを考えてくれるらしい。

 今回のテンジは、両者で示し合わせて指名したため、すんなりと組み合わせが決まっていた。そもそも千郷はテンジを二年間独占指導するという権利を勝ち取ったので、これは誰が口を挟もうとも決まっていた事柄なのだ。

 千郷の元には数多くの指名が来ていたらしいが、テンジのためにすべて断ったらしい。


 そして――このチームにはもう一人の日本人がいた。


「冬喜くんの一限目は何だったの?」


「俺? 俺のクラスはダンジョンの下層についての講義だね。その後少し時間が余ってたから、千郷ちゃんに鍛えてもらってたんだ」


「あぁ、そういうこと。だから、そんなに朝から汗だくでボロボロになってたんだ」


「なんか変なこと考えてた?」


「えぇっと……いや、その……」


 テンジは図星な顔をして、愛想笑いを浮かべる。

 その様子を見て冬喜は思春期なテンジの考えを察し、くすくすと思わず苦笑いするのであった。


 目の前にいる日本人の好青年は、黒鵜くろう冬喜ふゆき

 マジョルカエスクエーラ三年生の生徒であり、日本探索師高校の留学枠を使っている。日本人の学生の中でも一番将来の期待を寄せられている正真正銘の天才である。

 ここでの生活は三年目で、テンジのことを何かと気遣ってくれる本当に優しい先輩であった。


 髪の毛はほんのりと栗色に染めており、緩めの天然パーマが彼のトレードマークであった。

 優しく垂れている目尻に、大きな二重の瞳、いつも上がっている口角が彼の心の優しさを前面に押し出している。

 背は日本人男性の中では平均よりも少し高く170後半はあるのだが、体格は思っていたよりもすらっとしており、彼曰く筋肉が付きづらい体質なのだとか。


「あぁ、そういえば父さんがテンジくんを心配してたよ。あと、真春ちゃんはしっかりと面倒見ているから心配しないでってさ」


秋十あきとさんが? あとで僕から連絡しておくね」


「そうしておいてくれると助かるよ。父さんは心配性だから、良かったらこまめに連絡しておいて」


「うん、今度からそうしておく」


 冬喜は、テンジも良く知る……というか両親同士が元パーティーメンバーである黒鵜秋十の息子なのだ。

 秋十はテンジにいつも荷物持ちのアルバイトを手配してくれる仲介仕事を、バーの仕事の傍らで行っていてくれて、非常に頼りになる大人の一人である。

 そういった経緯もあり、冬喜のことも前々からテンジは知っていた。

 だからこそ、テンジは少しだけマジョルカについて詳しく、ここが自分を伸ばせる一番の場所なんだと理解していたのだ。


 冬喜という存在が、テンジをこのマジョルカに招いたといっても過言ではなかった。


「じゃ、そろそろ行こっか、二人とも。今日もビシバシ鍛えてくからね」


「千郷さん、よろしく!」


「気負わず頑張ろっか、テンジくんも」


 冬喜はまだ学生であり、成長途中であるのだが、すでに一級探索師レベルの実力を持っていると言われている。

 だからこそ、その言葉がテンジにとっては頼もしく聞こえるのであった。


 ライセンス上は二級探索師だが、本当の実力は零級探索師の百瀬リオンに見劣りしないと言われている白縫千郷。

 学生なのにも関わらず、将来は現役五人目の零級探索師になることを期待されている黒鵜冬喜。

 表向きは五等級の《剣士》であるが、実際は零等級よりも上である特級天職《獄獣召喚》を持つ天城典二。


 マジョルカエスクエーラにいるのは、こういう化け物たちなのである。

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