第77話 挟みうち
しばらくしたのち、荷馬車は橋を渡り始めた。
荷馬車から十五メートルほど遅れた距離でナナトも橋の入口を通過する。橋の前に立っていたライフルを持つ、ならず者の男の前を通るときは緊張したものの、特に何も言われることなく進むことができた。
相変わらず右腕を骨折したように見せかけているナナトは、他に何も持たない手ぶらのままで荷馬車の後を追っていく。すぐ目の前には背の高い、手荷物を持った男が歩いているので、その陰に隠れるようにしてナナトは前方をちらちらと確認した。やはり、犬の獣人が橋の道の真ん中でライフルを持って仁王立ちしたまま往来する人を眺めている。空き地でクインリーに話しかけたあの獣人だ。あと少しで荷馬車とすれ違う距離となった。
どうかバレませんように。
ナナトはヒヤヒヤした心境で前を進む荷馬車を見ていた。
橋の中央に差し掛かった頃、ついに獣人の横を荷馬車が通った。ナナトの願いが通じたのか、何事もなく犬の獣人を通り越したので、ナナトは安堵の息を吐く。そのとき、川の上流から下流に向けて風が流れ、荷台の藁が風に揺れて音を立てた。
すると突然、通り越したと思った犬の獣人が荷馬車を振り返って、夜空に向かって小さく遠吠えを上げた。その遠吠えに呼び寄せられるように、橋の向こうからライフルを持ったヒト種が三人駆けてくる。ナナトが来た道を振り返ると、橋の入口に立っていた二人の男たちもこちらに向かってくるところだった。
橋の上で、挟みうちだ。
「止まれ、そこの馬車!」
犬の獣人が勝ち誇った顔で叫んだ。橋の上に居た人たちが一斉に視線を向ける。
「隠れても無駄だぞ。お前の匂いははっきり嗅いだ。風が教えてくれたぜ」
荷馬車が立ち止まり、操作していたアライグマの獣人である老農夫がフードを脱いで振り返った。
「何の話だね? あんたらは?」
「じじいは引っ込んでろ。おい、藁の中を探せ」
犬の獣人に命令された男たちが荷馬車に飛び乗り、藁の束を荷台の外へ捨て始めた。
「な、何をするんじゃ!」
老農夫が馬車から降りて抗議した。喉をうならせ、犬歯を見せて物色をやめさせようとしたが、部下の一人に制止された。
「うるさい、お前はそこに立ってろ!」
様子を見ていたらしい老農夫の隣に座っていた獣人も馬車から降り、フードを被ったまま低い怒り声で叫ぶ。
「荷台には誰も乗ってないぞ!」
が、荷馬車を
まずい。クインリーさんが見つかっちゃう。
ナナトは気が気でなはなかったが、どうすることもできず、騒動の渦中にある荷馬車を迂回するようにしてその横を通った。
「いるぜえ。間違いなく。あの女の匂いがするからなあ」
犬の獣人が舌なめずりしながら呟いた。
「親分、これがありました」
荷台にいた男の一人があるものを拾って広げて見せる。それは、クインリーが劇場から抜け出すときに着ていた内装作業員の制服だった。途端に犬の獣人が渋面を作る。
「服だけ? 本人はどうしたあ?」
「いません。どこにも」
「荷台の下にもいません」
部下が報告した通り、荷台の上はすっかり空の状態となっている。荷馬車を引いていた馬がブルブルと身震いした。辺りには藁の束だけが散乱している状況だ。
「どういうことだ…いや、陽動か!」
犬の獣人が顔を上げた。
「小癪な真似しやがって! だがここに服があるってことは近くにいるはずだ。おめえら、配置へ戻れ! 獣人を注意してよく見ろ!」
男たちが駆け出した。老農夫が困った様子で散らかされた藁の束を片付けていく。
「ひでえことしやがるな。俺も親父を手伝わなきゃ」
ナナトの前を先導していた背の高いアライグマの男の獣人が振り返った。
「ほら、お前たちの荷物だ。もう行っていいか?」
「うん、どうもありがとう。おじいさんにもお礼を伝えておいて」
「あいよ。ああ、それとあの獣人の娘に伝えてくれ。あんな男とはとっとと別れた方があんたのためだぜってな」
アライグマの獣人は荷物をナナトに手渡してそう言うと、荷馬車に近付いて自分も藁を元に戻す作業を手伝った。藁を持ち上げる動作がかなり手慣れている。紛れもなく老農夫の息子だ。
ナナトは荷物を持ちながら急ぎ足で橋を渡りきった。犬の獣人の部下たちが血眼になって獣人を探しているが、すでにクインリーはこの橋の上にはいない。対岸に渡り、道なりに進んだナナトは、曲がり角でフードを被った人物に声を掛けられた。
「うまくいったわね。ああ面白かった」
フードを脱ぎ、アライグマの化粧を施したクインリーが顔を見せる。
クインリーが隠れていたのは荷馬車の荷台の中ではなく、御者の隣だった。
あらかじめ自分の匂いを強くこすりつけた作業服を藁の中にわざと見えるように隠し、それから手早く着色粉を使って顔だけアライグマの毛色に変え、老農夫の影に隠れながら馬の手綱を握る。犬の獣人が匂いに気を取られて藁の中を探し回っている隙に騒ぎから抜けて橋から逃げ出し、こうして対岸へ渡っていたわけだ。もともと老農夫の隣に座っていた息子は、クインリーに席を譲る形で馬車から降り、ナナトの姿を隠すように歩きながら荷物を運んでくれていた。そして橋の上で交代する形で、逃げ出したクインリーと入れ替わったのも計画のうちだ。
「どうして声を上げたりしたの? 荷台には誰もいないだなんて。僕、あのときクインリーさんが見つかるかと思ったよ」
「いないって言えばムキになって探すでしょ。あいつらを引っ掛けたのよ。私の男声、どうだった?」
クインリーが得意顔になってナナトから荷物を受け取った。
「凄く上手かった。そういえば、農家の息子さんから別れ際にクインリーさんへの
「彼氏と喧嘩して子供と一緒に実家へ帰るところなんだけど、逆上した彼氏が手下を連れて私を連れ戻そうとしてるから助けてって頼んだの。二人は快諾してくれたわ」
感心していいのか呆れていいのかわからなくなったナナトが言った。
「よくそんな話がすぐに出てくるね」
「役者ですからね。さあ、旧劇場までは残り半分もないわ。ここから先は近道を知っているし、張り切って行きましょう」
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