第60話 カッシュ

 相変わらずクーリンの奴は恥ずかしがり屋だ。素直に俺と食事したいと言えばいいのに。


 クリンリーによって控室から出されたカッシュは、自分の手の甲の匂いを嗅いで気分を落ちつかせた。


 まあいい。あいつが俺に惚れているのは間違いない。劇の本番が近いんで気が立っているんだろう。


 のしのしと廊下の中央を歩き、カッシュは道具係が食事を取るスタッフ部屋へと向かった。対向から歩いて来る者は、自分のこの逞しい体と勇ましい迫力に気圧されて自ら道を空ける。

 これこそが強者だ。カッシュは気分良く闊歩した。


「あの、すいやせん。親方を見ませんでした?」


 自分に道を譲ったヒト種が、通り過ぎざまに恐々とした様子で声を掛けてきた。服装から判断するところ、内装作業者の下っ端の若造だ


「昼飯で休憩って聞いてからいつの間にか見当たらなくなったんです。劇場の外には出ていないはずなんですが…」


「なんで俺がそんな奴のこと知ってなきゃいけねえんだ?」


 カッシュが凄むと、若造は震えあがって逃げていった。

 あれこそが弱者。軟弱物はいつだって何も手にいれられない。食い物もメスもだ。

 カッシュは今来たクインリーの控室を振り返る。

 それにしてもいい女に育った。まあ育てたのは俺のようなもんだが。


 カッシュが初めてクインリーと会ったのは、彼女がまだ台本の字も読めない頃だった。当時、劇団に所属する大人の獣人はカッシュしかいなかったので、クインリーはすぐに自分の後をついてくるようになった。ちょこまかしい存在でうっとうしかった為に、機嫌が悪いときに何度か叱り飛ばしたが、それでもクインリーは自分を親代わりと思っていたらしく、泣きながら謝ってきた。


 正直なところ、カッシュに劇の良し悪しはわからない。


 今の職に就いたのも他にまともな仕事がなかったからだ。もともとカッシュは医者を志していた。だが世間の獣人に対する差別は激しく、体力ばかりで知力のない獣人ががくを必要とする職に就くなど到底無理だ、わきまえろという周囲からの嫌がらせに心が折れ、カッシュは夢を諦めた。時代とともに差別の程度が弱くなっているとはいえ、今もなおヒト種、半獣人、獣人の順で社会的な序列は暗に存在する。純粋なヒト種から見れば、ヒトの姿から離れていくほどに野蛮で知性が劣るとされ、最下層の獣人は、危険極まりない仕事か、生来の体力に飽かせた底辺の肉体労働でしか雇ってもらえないのが現実だ。


 そんなカッシュだが、クインリーが成長するにつれ卓越した演技の片鱗を見せ始めていくのは肌で感じ取っていた。


 最初の動機は、単に気に入られようしたものだったらしい。カッシュのことをよく観察して、何を言い、何をすれば褒めてもらえるのか、逆に何をすると逆鱗に触れるのかをいろいろと試して覚えたそうだ。カッシュ自身は、そうして演技を勉強しているとは全く気付かなかったが、いつの間にかクインリーの言動でしゃくさわることがなくなり、おべっかとわかっていても上機嫌になる台詞を喋ってくるのでいい太鼓持ちに育っているとは思っていた。


 カッシュの反応で演技力に自信をつけたクインリーは、徐々に演劇にのめり込むようになっていく。


 子供役として舞台に上がってすぐさま評判を上げた彼女は、それからトントン拍子で劇団の看板と呼べる存在になっていき、二十歳になる頃には国政を任される政治家や金持ち共を前に、少しも震えることなく台詞を放つ女優にまで成長した。大舞台の前日にカッシュが“緊張はしねえのか”と聞いたら“あなたに怒られる恐さに比べればたいしたことないもの”と抜かしたぐらいだ。さすがにカッシュも感心するしかなかった。


 カッシュにとって印象が変わったのはクインリーが成長期に入ってからである。


 それまで大勢いる俳優うちの一人だった子供が大人へと変わる時期に、クインリーは羽化といって差し支えない美しい変化を遂げた。クルクルで毛玉の多かった体毛がブラッシングによって整えられ、小賢しそうな顔は、知性を感じさせる端正な顔立ちに変わって、今では国中の絵描きたちがひっきりなしに肖像画を描きたいと申し込んでくる。結婚適齢期になってからというもの、クインリーの婿になる男を想像したとき、決まってカッシュ自らが傍らに立っていた。他にふさわしい男がいるとは思えない。なにせ自分は、クインリーが小さいときから最も近くにいた獣人であり、力と体格に優れたオスだからだ。それに、クインリーが自分に惚れ込んでいるのもわかっている。


 昨日、クインリーは密かにカッシュを自分の控室に呼び出し、一つの質問と、一つの奇妙な用件を頼んできた。質問に答えるのは簡単だったが、頼み事の方はやや難儀なもので少々渋った。するとクインリーは“責任は全て私が取る。なんなら私が依頼したという念書も書く”とまで宣言したので、カッシュは引き受けることに決めた。


 この頼み事に一体どんな理由があり、クインリーに何の事情があるのかは教えてくれなかったが、別れ際に言った言葉がカッシュへの好意を物語る。


 こんなことを頼めるのはあなたしかいないのよ。


 この貸しは大きい。見返りは一つしか求めない。明日、あいつから頼まれたことを完璧に遂行した暁には、求婚するつもりだ。まさか断りはしないだろう。


 俺があいつを幸せにする。幼少期から長年見守ってきてやったんだ。ここまできたら死ぬまで一緒にいていいだろう。

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