第42話拐かし3

「旦那、藤七郎の旦那。

 出羽正屋の話を聞かれましたか」


 我が、おいよさんの作ってくれた昼飯、馬鹿貝と葱を味噌で煮た汁を冷飯にかけた、ぶっかけ飯を食べていると、何時ものように伊之助が長屋に入って来た。

 伊之助は腹が減って飯が食べたくなると、何か話を持ってやってくる。


「おいよさん、伊之助にも食べさせてやってくれ」


「藤七郎の旦那は優しいですね。

 猪野、しかたない奴だね。

 長屋に戻って茶碗と箸を持っといで」


 おいよさんは口は悪いが気の優しい人だ。

 なんだかんだ言っても、何時も伊之助の食べる分も作ってやっている。

 今朝も馬鹿貝の殻をとって青柳にして、熱々のご飯に乗せて辛子醤油をかけて食べたのだが、伊之助の分も料理していたのだろう、量が多かった。


 もちろん青柳のまま食べても美味しかったが、半分は小柱や舌切と切り分けて、これぞれの味わいと食感を愉しませてくれるのが、おいよさんの料理上手な所だ。

 少々贅沢ではあるが、最近は金銭的に余裕も出てきているから、小柱は掻揚や釜飯にしてもらい、舌切はぬたや握り寿司にしてもらってもいいだろう。

 香りのよい胡麻油を買っておこう。


「出羽正屋、知らぬ名だが。

 その出羽正屋がどうかしたのか」


 いつまでも食べ物の事ばかり考えていてもしかたがないし、伊之助の飯の準備ができるまでに、余計な話は片付けておきたい。


「出羽正屋を知らないって、あいつら旦那に御礼もしなかったんですか。

 この前の御家人安の一件で、助けに入った米問屋ですよ。

 あの腰抜け花婿がいたのが、出羽正屋ですよ」


「ああ、あの腰抜けの家が出羽正屋というのか。

 別に礼が欲しくてやったわけではないからな。

 礼をするかしないかは、本人達の心がけの問題だ。

 花嫁側の伊勢甚屋からは、懇切丁寧に礼を言ってもらって、切餅一つ貰ったよ」


「へぇええ、二十五両の御礼ですか。

 出羽正屋と伊勢甚屋では随分と心がけが違いますね。

 普通は婚礼の場となった出羽正屋が礼をすべきだと思いやすがね。

 そう言うところも家風が合わなかったのかもしれませんね」


「家風が合わないと言うなら、結婚が破談になったのか」


「そうなんですよ、伊勢甚屋の甚平さんが、『娘を助けず腰を抜かすような臆病者に、娘は嫁にやれない』そう啖呵を切って破談にされたそうですよ。

 それに今まで聞いてませんでしたが、藤七郎の旦那に御礼をしないとはね。

 そんな非常識な奴は、読売で叩いて店を潰しちまいやしょう」


「店を潰すというのはどうかと思うが、結婚が破談になった娘さんの評判が心配だ。

 娘さんによい縁談が来るような読売にできるのなら、我の名を使ってもいいぞ」


「そうでなくっちゃ、旦那じゃねえ。

 じゃあ、飯食ったら一緒に版元に行ってくだせえ」


 我が食事を終えて長屋を出ていくときに、おかみさん連中が青柳を干していた。

 今日の振り売りはよほど安く馬鹿貝を売っていたのだろう。

 青柳をそのまま干した桜貝と、斧足を引き伸ばして干した姫貝では、元が同じ青柳でも味わいが違う。

 我は部位ごとの味の違いが感じられる姫貝の方が好きだ。

 干物が完成するのが楽しみだ。

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