新設街道視察 3

 会議室を出て歩くこと小一時間。

 誰も文句を言わずに黙々と歩くのは、貴族としては普通じゃない気がする。


 領主館から1時間もの距離を歩いたことがないんだけど、領主の視察ってこんなに歩くのが普通なのだろうか。

 俺たちに普通を説いても仕方ないような気もするけど、ルーンディエラを抱きかかえたまま夏日の下を歩く俺をチラチラと様子伺いするエドガー親方たちが不憫でならない。


 俺、大丈夫だから、めちゃくちゃ鍛えられてるから。

 ルーンディエラが日焼けしたり熱中症になったら大変だからこまめに魔法で日光を遮ったり冷風を浴びさせたりはしてるけどな。

 おかげで魔法での簡易空調が上手になった気がする。


 歩く程に熱気が近づき、湿気を帯びた温い風が吹く。ぬかるんだ足元から熱を感じる地点から、見渡す大きな湯気の立つ湖。

 確かに熱い。熱いけど、源泉から遠い泉の端では、やけどするほどの温度ではなさそうだ。


 周囲は開拓されただけの広場で、まだ何も建物はない。

 この辺りにもとからある村にも査察の話は伝わっていたのか、心配そうな村人が数人ほど遠目に此方を眺めている。


 取りあえず、規模である。

 深さがないからか広域が水浸しだな。これじゃ調査どころかお湯を汲むことも難しい。


 俺はルーンディエラを片手でしっかりと抱えて、もう片方の手を軽く差し出した。

 取りあえず、深さは2mもあればいいかな。湧きでた湯を溜めるタンクを作らなければ。

 源泉は遠くだけど、望遠視を合わせれば位置の特定はできる。その辺りの直径50mほどの地面を魔法で掘り下げて、お湯を貯留させた。


 貯まる場所ができたからか、足元のぬかるみが徐々に引いていく。

 湯が流れ続けるのなら排水経路も作らなければならないが、どこに流せばいいのか見当がつかないので一旦保留だ。

 更地に溢れてもこの辺り一帯が洪水になっていないのだから心配はいらないだろう。まずは調査だ。



「マグナ、温泉の成分で有害なものと有効って言われてるものがわかるか?」


 俺は溜まり始めた湯を分析する。


 ルーンディエラを肩車に移して、情報化収納インベントリから取り出した紙とペンでその大まかな成分をメモしてマグナに手渡すと、マグナはそれを一礼して受け取りさらりと目を通して顔を上げた。


「成分は辺境伯領の温泉とよく似ているようでございますね。多少の割合は異なるようですが。人体に即有害なものは含まれていないようです。もちろん毒にも薬にもなるものはございますがね。

 塩化物、硫黄、少々の二酸化炭素などが有効成分でしょうか。温泉としては適した湯の質と考えてもよろしいかと」


 全く滞りなく答えが返ってくる歩くウィキ先生である。

 科学よりも魔法色の強いこの世界に化学的有効成分の概念があるかを失念していたんだけど、普通に返ってきた。まあいいや、さすがの一言で済ませておこう。


「叔父様、湯温が調整できるようなものって何かあるかな。さすがにこのままじゃ熱湯だから」


 今度はアドニーに問いかける。アドニーはうんうんと頷いてにこやかな笑みを浮かべた。目だけは全く笑っていない、野獣のようだ。


「大丈夫だよ、湯を沸かせることが出来るのが魔法道具ならば、湯を冷ますこともできるからね。でも生活用水の確保は絶対必要だから、この一帯で井戸が掘れないのだったら、そっちの方が費用がかかるね」


「メルーン山には大きめの川が複数流れていたと思うよ。生活の水はそっちから持ってこれないかな。水路が必要にはなるけれどね。どちらにしても、この温水の排水も必要でしょう?」


 ソルアがすかさずアドニーに応え、地図を広げて水路の計画を立てる。


 髪を引っ張るルーンディエラを肩から降ろして抱きかかえながら、俺はぽかーんとしたエドガー親方たちを眺めた。


 普通に視察っていう形でお偉方がやってきて、話を聞いて帰っていくって予定だったと思うんだ。

 なのに、温泉郷開発計画が勃発して、更に目の前で着々と進んでいる。

 俺だって予想外だけど、現場の人たちにとってはもっと予想外の事だろう。いや、ほんと非常識ですみません。


「とりあえず、話を詰めるのは帰ってからにしないか?」


 興奮気味のカドマ親子を宥めて帰路につかせる俺を、エドガー親方は信じられないものを見るような眼差しで見ている。

 この非常識集団を取りまとめる俺も非常識なんだよな、申し訳ない。



 帰り道も半ば、歩いている道の近くにある村からの見物人が時折立ち並ぶ中で悲鳴が聞こえた。

 全員が一斉に振り向いて、ダニソンが皆を守るように一歩前に出るなかで、周囲の注目を集めたその子は地に伏せていた。


 地面に手足をついた母と思しき女性の泣き叫ぶ中で、せき込む度にごぼごぼと血を吐く小さな少年。

 小さな肩は懸命に酸素を取り込もうと上下して、虚ろな瞳の表情は蒼白だった。


 胸が、絞られるように痛む。

 だけど、その光景を見るだけで俺の頭も身体も機能を止めてしまったように、何もできない。


 息を飲むような音が、色々な場所から聞こえた。誰がどう見ても、生命の灯が消え失せそうな瞬間だっただろう。


「にぃ、くー」


 ルーンディエラが俺の腕の中で、力強く声を上げた。


 固まったままの俺の腕を振りほどいて、足をばたつかせて地面に飛び降りたルーンディエラは、その少年に向かって走る。


 小さな身体が何度も足をもつれさせ、不安定によろめきながらも赤く染まった少年に突撃するように真っ直ぐと向かってゆく。


 呆気にとられた俺たちはとっさにルーンディエラを止める事ができずに、一番初めに我に返ったダニソンが追いつく頃には、ルーンディエラは少年の横に膝をついていた。


 パステルな黄色の愛くるしいドレスが、土と血の色に染まる。

 空を見る少年の顔を覗き込み、ルーンディエラは笑った。あどけない幼い顔には、どこか確信が宿っている。


「にぃ、ぁいじょーぶ…」


 ダニソンに肩を掴まれたルーンディエラが両手で少年の顔に触れると、奇跡が起こった。


 綺麗な色の光が、シャボン玉のように少年の周囲を囲む。

 何色とも形容しがたい、青、紫、黄色、緑。

 透明の空気に浮かぶ虹のように、不思議な美しい色が次々ときらめく。

 温かい、温かい、それでいてつつましやかな光。


 誰もが目の前の光景に、現実を忘れて見入ってしまったに違いない。それほどに不思議な、見たことがない光景が目の前で繰り広げられている。


 その中で、ただ一人現実を取り戻した少年が、小さくせき込んで瞬いた。


 色を取り戻した世界に何度もぱちぱちと瞬きを繰り返し、蒼白だった頬を血色の良いピンクに染める。

 苦しそうに上下していた胸も肩も、ぎゅっと縮こまって、握った拳を震わせて、さっきまで呼吸に忙しなかった口元から大きな声で叫んだ。


「………すっげー、きれい!!」


 瞳を輝かせながら上半身を起こした少年が、ルーンディエラの手を握る。


 周囲が唖然と見守っている中で、ルーンディエラは満足そうににっこりと天使の笑みを浮かべている。


「可愛いお姫さまなのに、天使さまで、女神さまだ。ありがとう、すっごく苦しかったのに、元気になったよ」


 その光景を呆けて見守るしかない俺の耳に、小さく溜息が届いた。


「まったく、カトゥーゼ家のお方はまことに不条理でございますね。

 今のは治療ではなく蘇生魔法。貴方の妹君は類まれなる聖女さまであられるようです」


 俺の侍従となってからは、その能力を隠そうとはしなくなったマグナがからかうように呟いた。


 俺の妹は天使ではなく聖女だったらしい。

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