神様と魂の片割れ

 夜も更けてきそうな頃合いだったので、俺はアプセルムとルーンディエラを回収して母の部屋を出た。


 あまりある大きさの俺のベッドで眠る二人の天使の顔は幼い。

 少し負けん気が強くなってきたアプセルムと、活発でおてんばなルーンディエラ。

 眠る姿はまたまだ幼児で、本当に絵画に描かれた天使のようだ。


 弟妹の世話にすっかりと慣れた俺は、きっと立派な育パパになれると思う。相手さえいればな。



 可愛い弟妹たちを起こさないようにベッドから離れて、俺は窓辺へと歩みよった。


 ほんの少しだけ抱えた胸のわだかまりが、……いや、本当はずっとそこにあったのに見ないできたものが、ひどく重く苦い。


 カーテンを少し開くと、窓の外の夜闇は月と星の光をわずかに灯した緑。

 今生で生まれついたときから馴染みある風景。

 もうすっかり、ここが当たり前のように帰るべき場所となっている。なのに、記憶を取り戻してからは、時々ふとした瞬間に、元の世界を恋しく思う事があった。


 米食に対して思ったことのように、コンビニや商業施設が懐かしかったり、学校やバイト先の街並みだったり、友達とばか騒ぎしていた溜まり場や、いつも見てきた景色の全て。

 あのマンガの続きが読みたかったなとか、あれを途中でやめたままだったなとか、ふとした瞬間によぎるその記憶が、懐かしくて恋しい。


 今の生に不満があるわけではなくて、もう俺の世界ではないと理解も納得もしていて、それでもその郷愁を忘れることはなかった。


 その恋しさの中で、最たるものがニコの存在だった。



 産まれる前からそばにいて、二人で一つの命を分けあった。

 思い出の中のほとんどの景色や場面にはニコがいる。生きてた時間の大半をニコと過ごしていたから。

 ニコが誰よりも何よりも大切だった。ニコがいるのは、俺が俺であることと同等に当たり前のことだった。


 もう、他人なんだとわかってる。もう戻れないとわかってる。なのにふとした瞬間に、隣にニコがいないことを思い出して、喪失感にみまわれる。


 記憶を取り戻した直後、俺はそれなりに必死だった。

 なんとか新しい現実を掌握したかった。思いもよらないようなことが、たくさんあった。楽しいことも、たくさんあった。


 だからちょっとした郷愁も、やるせない喪失感も、なあなあにしてきた。

 いつかは忘れるだろうと。


 だけどそれはいまだに鮮明で、ただ隠していたんだと知ってしまった。これだけの時間が過ぎて褪せない想いを、どうしていいのかわからない。



「ニコちゃんは、一樹の残したものに慰められて立ち直って、幸せになったよ」


 そこにいたのか現れたのか、気付けばクロノが窓辺に佇んでいて俺に声をかけた。


 クロノは人間のふりをしてそこにいる場合と、他者には見えないけど俺にはわかる場合と、そこにはいないのに存在を感じるときがある。

 全く存在を感じないのは本当にまれで、それだけ俺を気にかけてくれてるんだろう。


 そしてきっと前世で俺とニコを見守ってくれていたように、ニコのことも見守ってくれているのかもしれない。


「一樹の周りにいた友達が、ニコちゃんを慰めてくれたし一緒に悲しんでくれた。一緒に外に連れ出してくれたしね」


 優しげな表情でクロノが俺の知らないニコの話をする。


 悲しみから立ち直れたならいい。

 ニコよりも活動範囲が広かった俺ですら、こんなにも欠けた半身を嘆いているのだから、突如死という別れをつげられたニコはどれだけ悲しんだのだろうと思うと、心配だったから。


「そうか…ありがとう、クロノ」


 ほっとした気持ちもあるけど、やっぱり寂しい思いは薄れない。


 友達にも誰一人として挨拶なんてできなかった。

 ずっとそうなる事をどこかでわかっていた俺とは違って、きっと悲しんでくれたんだよな。

 俺の友達はおとなしめな男連中と、陽気な女の子が多かったけど、いいやつばっかりだったからニコの事も気にしてくれたんだろう。


 クロノはニコのずっと先を知っている。

 時空を超えるっていうのは不思議だけど、クロノには過去も未来も関係ないらしい。俺にはそれがどういうことなのか、想像も出来ないけどな。


「それに、ニコちゃんを守るために彼が尽くしてくれたし、ニコちゃんは幸せに生きたよ。

 一樹と離れて50年くらいかな、子供と孫に囲まれて、笑顔でお別れできた。だから、心配はいらないよ」


 クロノが何でもないことのように、更に先の未来を明かす。


 ―――えっ、彼?ナニソレ。誰それ。

 ってか50年って70代も半ば?平均寿命とかわらなくね?


 続いたクロノの独白は予想もしない方向だった。


「彼って誰だよ?」


 思わず聞き返してしまった。

 俺のニコに、彼。そう思ってしまった俺は実は底なしにシスコンだったんだろうか。


 ニコといつか離れ離れになって、ニコの隣にいるのは俺の知らない人だったとして。それは兄妹として至って普通だし当たり前なんだろう。

 だけど、俺はそれを想像したことがなかった。


 クロノはやんわりと唇に弧を描いて、遠くを見るように目を眇めた。懐かしむように俺を見て吐息で笑い、トンと俺の肩を叩く。


「ニコちゃんにとって、一樹の次にいい男なんじゃない?優しすぎるくらい優しくて、いつも一所懸命で、頑張り屋のいい子だよ」


 含み笑いのクロノがする説明はよくわからないけど、俺の知らない何かがあるようだった。



 俺は思わず胸元に手を当てる。

 クロノがニコは幸せに生きたという。きっとそれは事実なんだろう。喜ぶべき事なんだろう。

 だけど、ひどく切ない。俺一人、置いて行かれたみたいで、大切なものをなくしたようで、胸の中で何かが欠乏しているようだった。


「ごめんね、一樹。……本当は、一樹をニコちゃんに会わせてあげることはできるんだ。

 でも君たちは、魂の根っこがくっついてしまってるから。いつもお互いを離さないように、一緒に生きられるように、繋がりあって生きていた。

 一樹がニコちゃんを求めるのは、当たり前なんだ、ずっとそうしてきたんだから。

 でも今一樹がニコちゃんに会ったなら、二人とも他に何も求めなくなってしまうでしょう?

 それはきっと、人間としてちょっと歪だから。だから、一樹がニコちゃん以上に大切に思える人ができるまで…僕は君たちを会わせてあげる事はできない。

 その時に、ニコちゃんが望んだなら、…一緒にこの世界で暮らせないかなあとも思っているのだけど」


 クロノが眉根を寄せて、眉尻を下げて、申し訳なさそうに俯いた。


 そうか、クロノは最初から気づいていたんだ。俺の気づかないふりをしていた気持ちに。


 それに仕方ないと言えるのか、埋めようのないこの喪失感は。


 なんだか少し、安心した。歪な想いでも、それでいいと言われた気がして。クロノは非を感じているみたいだけど、クロノが悪いことなんて何もないよな。


「そっか、ありがとう。そうやって俺とニコを見守ってくれてて。

 寂しいけどさ、仕方ないっていうのは分かってる。

 情けないよな、俺はニコを守ってるつもりで、こんなにも守られてて依存してたなんて。本当は、ニコが俺を守ってくれてたんだしな」


 色々なことに気づいてしまった。この執着心。独占欲。依存心。

 俺は親愛でも恋愛でもない、歪んだ思いでニコを縛ろうとしている。ニコもそうだったのかもしれない。

 だったら、会えるわけなんてない。だって、大切なんだ。幸せになって欲しいんだ。


 俺は、俺として生きていかなければならない。それが、人として当たり前の姿なんだから。


「ニコがおばあちゃんになって幸せに人生を終える時に、俺の事を覚えててくれたなら、望んでくれたなら、会えるかな」


 きっと一人前の人間になって、一人と一人として。


 まだ胸は苦しいし、勝手に涙は零れてしまうけど。きっといつかは、ニコが誇れる兄として、ニコに会いたい。


 泣き笑いになったけど、悲しい訳じゃない。


 クロノは俺の頬を拭って、楽しげに笑みを浮かべた。未来を心待ちにするように。


「そうだね、僕もニコちゃんに会いたいもの。一緒に会いに行こう。そして、一緒にニコちゃんをスカウトしてよね」


 まだ遠い未来の約束。だけどきっとくる未来の約束。俺はニコに可愛い奥さんを惚気ながら、ニコの惚気話を聞くんだ。


 それまでは、俺を懸命に生きるよ。ニコに笑われないようにな。

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