ハルと神様 2

 鋭い嘴がハルに届く少し前に、ふっと全ての物音が消えた。


 静かな静かな世界に、襲いかかる魔物の前に浮かぶクロノの声が響いた。


「―――消えて」


 透明な、温度のない、静かな声。透き通った水色の瞳に輝く銀の髪の、空に浮かぶ『神様』。


 次の瞬間、魔物は最初からいなかったかのように姿を消して、魔力の結晶の核が青い光を帯びて空気中に霧散した。



 キラキラ、キラキラ、青い光の雨が降り注ぐ。

 ぺたりと座り込んだハルがはくはくと浅い息をしながら、その言い得ぬような神秘的な光景を呆然と言葉なく見上げている。


 クロノは空中に浮かんだまま、くるりと振り返ると俺の元へと飛んでくる。

 伸ばしていた、ハルへと届かなかった手を握り、呆れたようにため息をついた。


「もう、一樹は無用心だね。間に合ったからいいけど、蘇生は世の理にちょっと無理をさせてしまうのだから、できるだけ安全にね?」


 いつもの柔らかな微笑み。これだけのことをして、何でもないように言う。


 俺たちは今、クロノに命を救われたのだというのに。


 いや、俺だけなら逃げられた。クロノが救ってくれたのは、俺ができる限りのことをして救いたかった、救えなかったはずの大切な友達なんだ。



 ―――涙がこぼれた。


 本当は、神様はこんな存在じゃないんだぞ。いつだって便利に、なんだってしてくれる存在じゃないんだ。


 これは、俺の失態だったんだ。なのに。


 感謝してもしきれないのに悔しい。

 大事なものを守れない自分が悔しい。


 そして、お前だって俺の大切な友達なんだからな。

 当然のように守られてる俺もまた、悔しいんだ。


 クロノの手を握り返して、俺は喉に詰まった思いを飲み込み、震える声で言った。

「…ありがとう、クロノ。俺も、いつかは、お前だって守れるようになるからな」


 クロノは目を丸くして、嬉しそうに笑った。



 クロノと手を繋いでハルの元へと駆け寄ると、ハルはようやく我に返ったようで、青ざめた顔で声を震わせてクロノを見上げた。


「クロノは……何者なのですか?」

 掠れるように乾いた喉から絞り出した声は弱々しいものの、血色のない顔の中で薄紫の瞳だけは理知の光を秘めて、静かにクロノを見つめている。


 クロノは困ったようにちょっと眉尻を垂らして曖昧な笑みを浮かべた。


「僕は、この世界の神様って言われているものだよ。ごめんね、ハルくん。今まで黙っていて」


 不安と諦めが混じったような人間臭い表情で苦笑するクロノを、ハルはしばらくじっと見つめていた。

 まだ震えの残る呼気を吐ききるように深く細く響かせ終わると、ハルは自分の力で立ち上がってズボンを叩き、クロノに向き直って頭を下げた。


「まずは、助けてくださってありがとう、クロノ。私の行動が軽率でした。

 貴方は不思議な方だと思っていましたが、まさか神様だなんて。

 これで私のライバルは一人減りましたね。神様ならライバル視しなくてよいですもの」


 顔を上げたハルは、ふんわりと笑っていた。

 今までクロノと接してきた中で、クロノを知り、多分、今クロノが浮かべている寂しさにも気がついたのだろう。


 ハルが浮かべていたのは、神様への畏怖ではなく、友達への感謝といたわり。

 クロノは目をしばたかせて、それから頬を綻ばせる。


「ハルくんにはそんなにライバルがたくさんいるの?」

 クロノが問い返すと、ハルは深く頷いた。


「リューの周りは、皆優秀なかたばかりではないですか。

 私は自分の非才さが、常に悔しくあったのです。皆のように、優秀になりたいと思ってきたのですよ。

 例え友人だとしても、ただ負けたくはありません。皆ライバルです。

 でも、クロノは神様なので、張り合う必要がありませんね」


 ハルが上品に笑う。

 その表情は、自分らしさを見つけて根を広げ、堂々と咲き誇る大樹の花だ。

 昔の怯えた表情は影もなく、恐ろしい目にあった直後でも、震える身体を叱咤して他人のために微笑める、強くて気高くて慈悲深い花。


「僕は、ハルくんの友達でいたいよ」

 くすりと笑ったクロノの手を取って、ハルは頷いた。


「私たちは、もうとっくに友人ですよ。これからもね」

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