第422話 退路遮断
統一歴九十九年五月五日、深夜 -
その火災は
床にはどこからか持ち込まれたらしいカーテンか毛布らしきものが落ちていて、それが焚きつけだったようだが、火は既に壁際の食器棚にまで燃え移っており、天井は炎に焙られ煙を発し、梁に塗られたタールは溶けだし、炎の雫となってポタポタと垂れ落ちているようなありさまだった。
誰がどう見ても放火である。ただ布に火を点けて床に放置したところでこんなに燃え広がりはしない。その前に煙で気づくだろう。ところが、煙が室外に漏れ出すころにはこの惨状…火を点ける前に壁や食器棚にも油をかけるなどしておかなければ、こうまで短時間に燃え広がるわけは無かった。
使用人たちは大慌てで消火を始めているが、いかんせん放棄されて久しい無人都市の
手桶はおろか鍋釜はもちろん、
そもそも、天井に火が達している時点で初期消火は諦めるべきであっただろう。燃え始めた天井に下から水をかけたところで火は消せない。この状況から消火するというのなら、もう建物そのものを壊して被害個所を局限する破壊消火に切り替えるべきだった。しかし、そのために必要となる斧や大槌などもそろっているわけではない。
それでも使用人たちが懸命の努力を重ねて水で消火作業を続けているのは、ひとえにルクレティアたちが避難するための時間を稼ぐために他ならなかった。そうした使用人たちの忠節に応えるため、ルクレティアたちは控えていた
「ダ、ダメだ!とっつぁん!!
コッチに来ちゃダメだぁ!!」
厨房とは反対方向へ逃げようと進んでいた一行の前にヨウィアヌスが血相を変えて駆けてきた。武装しているのはリウィウスやカルスも同様だったが、ヨウィアヌスは何故かリュウイチから拝領したミスリルショートソードを抜き身で持っている。
「なんだ、どうしたヨウィアヌス!?」
「化け物だ!こっちに化け物がいて暴れてやがる!」
「化け物だぁ?」
「ああ、でかい黒い犬だ。
今、軍団兵どもが戦っているが、
ありゃ尋常じゃねぇぜ!!」
確かに喧噪は聞こえてきていた。それはてっきり火災が起きているからだと思っていたが、どうやら違うらしい。言われてみれば火災現場と全く逆の方向から、殺気立った罵声や怒号が聞こえるのはおかしな話だった。
「だが、こっちじゃ火が出てんだ。
何とかなんねぇのか!?」
「ダメだぜとっつぁん、もう軍団兵が三人も倒されちまってんだ。武装した軍団兵がだ!
少なくともあの黒い犬をどうにかするまで、こっちは駄目だ。」
ヨウィアヌスが息を切らせたまま返答すると、リウィウスはチッと舌打ちした。そして背後で大きな黒い犬と聞いたヴァナディーズが顔を青ざめさせ、ガタガタと震え始める。
「ファド…ファドだわ…ファドが来てる…」
「ヴァナディーズ先生!?」
ヴァナディーズの異変に気付いたルクレティアがヴァナディーズの肩を優しく抱くようにしてその顔を覗き込んだ。ルクレティアの声で異変に気付いた全員がヴァナディーズとルクレティアに注目する。
「ファドよ。
一昨日…シュバルツゼーブルグで私を襲った時、ファドは大きな黒い犬を連れていたわ。きっとファドが来たのよ!ファドが来てるわ!!」
それを聞いてルクレティアはリウィウスを見た。リウィウスはルクレティアの視線からそっちは駄目だというメッセージを汲み取ると、周囲の全員を見回して言った。
「わかった。しょうがねえ、一旦さっきの小食堂に戻りやしょう。そんで窓から裏へ逃げるんだ。
南ん方へは出んなと言われちゃいるが、この際しょうがねぇ。
銃声は遠いし、ここよりゃ南の方がまだ安全だ。」
小食堂は建物の南側に面しており、その窓から外へ出れば当然神殿の南側へ出る。だがそっちはわずかばかりの裏庭を挟んですぐに樹木の生い茂った斜面であり、そこは盗賊団右翼軍の襲来が予想されていたため、何かあったとしてもなるべくそちらへは出ない様に事前に指示を受けていたのだ。そして、実際に遠くからではあるが南からは多数の銃声が聞こえている。
既に迎撃のために
しかし、建物からの本来の出口を火災とモンスターで塞がられてしまっているとなれば、もう南へ逃げるしかない。リウィウスが言ったように南から聞こえる銃声はすでに遠く、南へ出たからといって戦闘に巻き込まれてしまう危険性はあまりないように感じられた。
一同は頷き合うと一斉に先ほどの小食堂へ戻り始めた。
パンッ!パンパンッ!
出てくるときは最後尾についてきたせいで戻る時は先頭になってしまった侍女たちが
「あいつら、神殿で鉄砲まで撃ちやがったのか!?」
「そんだけ尋常じゃねえ相手ってことさ、とっつぁん」
侍女たちに続いてルクレティアとヴァナディーズが小食堂へ入るくらいのタイミングでやけに切羽詰まった声が聞こえてきた。
「奥へ行くぞぉ!!」
「ダメだ!行かせるな!!」
続けて小食堂へ戻る集団の中で最後尾になってしまったヴァナディーズの監視役の軍団兵が悲鳴を上げる。
「うわああ来たぁ!!」
「お!?おおおおおおっ!!」
ドドッドドッドドッドドッ
ダイアウルフほどではないものの、とても犬とは思えない重々しい足音が狭い廊下に響く。煙の漂い始めた暗く狭い廊下に響くその音は、聞く者の生存本能を直接刺激し、恐怖感を呼び起こさせる。そして彼らの目の前に現れたのは犬の形をした動く闇そのものだった。燃えるように赤く光る二つ眼だけが、それが単なる影でも闇でもないことを告げている。
ドガッ!!
「うはっ!?」
「くそっ!!」
駆けこんできた巨大な黒い犬が二人の兵士が構えた
「おいっ!?」
「しっかりしやがれ!」
「す、すみません!!」
リウィウスとヨウィアヌスが倒れ掛かってきた二人を押し戻すと、そのうち若い方の兵士が素直に詫びを入れた。
「お前ら、ここでそのワン公を抑えとけ!
絶対に通すなよ!?」
「わ、わかりました!」
「任せとけ!さっきは油断しただけだ!」
リウィウスが背後から兵士に言うと、一人は投槍と
「任せたぞ!
ヨウィアヌス!お前もコイツらと一緒に…」
「わかってる!皆まで言うな!
とっつぁんは先に行きな!」
リウィウスがその場をヨウィアヌスと兵士二人に任せて小食堂に戻ると、そこには既に別の脅威が現れていた。
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