第168話 楽しきひととき

統一歴九十九年四月十六日、晩 - 《陶片》満月亭/アルトリウシア



『え、子供いんの!?』


 思わずリュウイチは驚きの声をあげた。


「いるよぉ~?

 去年生まれたばっかの男の子さ。」


『へ、へぇ・・・』


 リュウイチが思わずリュキスカのお腹に目をやると、それに気づいたリュキスカは上体を少しのけ反らせ、胸のせいで浮き上がった薄絹のトゥニカを押さえつけて自分のお腹を見せびらかした。


「ヘッヘェーン♪子供産んだみたいにゃ見えないだろ?

 アタイは踊り子サルタトリクスだからね、産んだ後がんばって引っ込めたんだ。」


 ほどよく皮下脂肪が乗っていてシックスパックと呼べるほど引き締まってるわけでは無いが、見た限りはペッタンコでとても子供を産んだ腹には見えない。

 が、リュウイチの目はむしろ腹の部分を密着させたことで浮き上がった乳房の方へ引き寄せられてしまう。


『そ、そりゃ凄い。』


「だろ?」


『去年生まれたってことは一歳?

 店で働いてて大丈夫?』


「もうすぐ・・・再来月で一歳だね。

 今、娼婦仲間で店休んでるが面倒見てるからいいんだ。

 アタイも稼がなきゃ、いつまでも休んでると借金が増えるばっかだからね。

 実は給仕はやってたけどは子供産んでからは今日が初めてなんだ。

 その最初のお客さんがアンタで嬉しいよ。」


 まだと言ってないのにそういう話に持って行かれそうになってる事に少し戸惑いを覚えつつ、でも見渡す限りヒトの娼婦はこの娘だけだしブスってわけじゃないしまぁいいかと曖昧に頷く。


『え、ああ・・・』


 ダメ押しとばかりにリュキスカがしなを作って身体を寄せてくる。


「・・・ねぇアンタ、アタイを買ってくれるんだろ?」


 リュキスカの身体からはほんのりオリーブオイルの香りがした。


『いくら?』


「んー、二枚くらい貰ってもいいかい?」


 リュキスカは自分の顔のすぐ横に右手の親指と人差し指と中指を立て、小指と薬指を曲げて見せた。《レアル》古代ローマ由来の数字の二を表すハンドサインだが、それを知らないリュウイチは内心で「それって三じゃないの?」と苦笑する。


『二枚だな?いいよ。』


 この店の相場は一回一セルテルティウスである。一番人気のベルナルデッタでさえ二セルテルティウスだ。

 思いっきり吹っ掛けたつもりだったリュキスカは目を丸くし、左手で口元を抑えて吹き出しそうになるのを堪えるみたいに身体をわずかに丸めた。ハンドサインを作っていた右手の指も無意識にわずかに曲がる。


「い、いいの?」


『いいよ?』


「ホントに?アタイで?」


『ああ、十分カワイイと思うし、他にヒトはいないし?』


 リュキスカは少しうつむいて目を閉じ、両手を胸の脇で小さくガッツポーズをとると次の瞬間には「やった!」と大きく万歳をするみたいに仰け反って両手を天井へ向けて突き出し、トトトトトと座ったまま足踏みする。


『大袈裟だな。』


「いいじゃないさ!

 さあ、ジャンジャン飲んで食べとくれよ。

 ああ、でも飲むのは程度にね♪

 ホラ、この牡蠣カキなんてどうだい?」


 そういうとリュキスカは牡蠣の蜂蜜漬けを右手で摘まんでリュウイチの口元へ持ってくる。


『いや、自分で食べるよ。』


 苦笑いしつつ遠慮するリュウイチにちょっと調子に乗りすぎたかなと反省しつつリュキスカはヘヘッと笑って摘まんでいた牡蠣を自分の口に放り込んだ。ニ、三度口を動かして「んーっ」と小さく声をあげながら首を傾げ、笑顔で頬を抑えて美味しさを表現する。

 冷静に見ればひどくあざとい行為だが、実際に上機嫌な美人がやってるのを見て不快に思う男はいない。

 リュウイチはリュキスカの愛嬌に素直に好感を抱きながら、チーズを一つ手に取ってそのまま口に放り込んだ。それを見てリュキスカの顔から笑顔が消え「あっ」と小さく声をあげる。


『うっ・・・』


 最初の一噛みで酒と間違って酢を口に入れてしまったかのような顔をしてそのまま固まるリュウイチを見たリュキスカは、顔を青くしながらリュウイチがチーズを吐き出すんじゃないかと身構えた。

 しかし、リュウイチはそのしかめた表情のまま顎を動かしはじめ、そしてゴクと喉を鳴らして飲み干す。


「だ、大丈夫かい?」


『いや、これ、凄い味だな。』


 そう言ってワインで口をそそぐ。


「そのまま食べるとクセが強すぎるだろ?

 ほら、こうやって蜂蜜つけて食べてごらんよ。」


 リュキスカは同じチーズの欠片をもう一つ左手でとり、小皿に入れられた蜂蜜をスプーンで塗りつけてリュウイチの顔の前まで持って来た。リュウイチがそれを手に取って口に運ぶのを想像していたリュキスカだったが、リュウイチはしばらく怪訝な顔でチーズとリュキスカの顔を見比べた後、リュキスカが手に持ったままのチーズにパクっとそのまま食らいつく。

 一瞬ビックリしたリュキスカがゆっくりリュウイチの口から指を引き抜くと、リュウイチはゆっくり顎を動かし始める。


『・・・甘塩酸あまじおすっぱい』


 リュキスカは吹き出しそうになるのを堪えつつ、笑顔を取り戻した。


「塩漬けにしてあるからね、塩辛いのは仕方ないのさ。

 でも、臭いのはおさまったろ?」


『これ、上等なチーズなの?』


「そりゃそうさ!

 アルトリウシアで・・・いやアルビオンニアで一番贅沢なチーズだよ。

 なんたって山羊の乳と仔山羊からとったコアグルムで作ってね。そいつを岩塩をふんだんに使って漬け込んで鍾乳洞の中で熟成させんのさ。」


『こあぐるむって何?』


 チーズのウンチクを自慢げに話すリュキスカがリュウイチの質問にピタッと止まる。まさかコアグルムを知らない人間が目の前にいるとは思わなかったからだ。


「え?・・・あぁー。えっとね・・・コアグルム、コアグルム・・・」


 天井を見つめるように記憶を探るが、説明しようにもラテン語以外では何と言うのか頭に浮かんでこない。

 仕方なくリュキスカはニヒィと笑ってから「ちょっと待ってね」と一言断わると、テーブルに手を付いて腰を浮かせ半立ちになり、店中に向かって大声をだした。


「ねぇ!コアグルムって他の言葉でなんて言うんだっけ!?」


renetteレナット!!」

présureプレジユーか?」

juokseteヨゥクセベよ!」

löpeレオッペじゃない?」

rennetレンネットだろ。」


 店中の男女が店員、客の別なく色々な言語でコアグルムを意味する言葉を教えてくれる。リュキスカはその中にリュウイチの知ってる言葉があるんじゃないかと期待してリュウイチの顔を見るが、リュウイチは浮かない表情のままだった。


 日本語では凝乳酵素ぎょうにゅうこうそと呼ばれるものだが、そもそもリュウイチの頭の中にコアグルム(英語だとレンネット【Rennet】)に関する知識が全くないし、凝乳酵素なんて言葉も記憶にない。だから何語で言われようが分かる筈も無かった。

 椅子から腰を浮かせて半立ち状態になっていたリュキスカは申し訳なさそうに腰を降ろした。


「ごめんよ。アンタの話す言葉でコアグルムを何て言うのかはわかんないや。

 アタイもいくつか言葉を話せるけど、ラテン語以外はだから難しい話はできないんだよ。

 とにかく、乳を固めてチーズにするためにものさ。仔山羊とか仔牛とかから採れるのが最高なんだけど、殺さないと採れないんだ。」


 リュウイチの質問に答えられなかったことを詫び、せめてコアグルムがどういうものか説明する。


『いやいや、気にしなくていいよ。そうか、ただチーズを作るためにわざわざ家畜を殺さなきゃいけないから贅沢なのか。』


 たしかに植物由来のコアグルムが主流のこの世界ヴァーチャリアでわざわざ家畜の胃から採ったコアグルムを使ってる事も贅沢ではあったのだが、このチーズが『贅沢』とされる最大の理由は貴重な岩塩をふんだんに使っていることにある。アルビオンニアでは岩塩は採取できず、年中曇りか雨のアルトリウシアでは塩田も作れないので海が近いのに塩はほとんどとれない。このため、塩のほとんど全てを輸入に頼っているのだ。

 そこに気付かないリュウイチにリュキスカは「やっぱりこの人はレーマから来た人だ」と確信を強めていた。


「あぁ、それもそうなんだけどさ。ほら、『岩塩をふんだんに』って言ったろ?

 アンタ、大陸から来たのならわかんないかも知んないけどさ、ここアルビオンニアじゃ岩塩は高いんだよ。」


 やや気まずげに、半分なじるように説明するリュキスカの話で《レアル》世界でも塩が貴重品だった時代や地域があった事を思い出したリュウイチは、自分が酷く間抜けな事を言ったような気がして恥ずかしくなった。


『ああ、そう言えばそうだった。岩塩を使ってるんだったな。』


 小っ恥ずかしいのを隠したいのか酒杯キュリクスに残った酒を一気に煽ったリュウイチから空の酒杯を取り上げると、リュキスカはお代わりを注いで笑顔で手渡す。


『ありがとう。』


「いいんだよ。

 それよりこっち食べないかい?」


 そう言って牡蠣を摘まむ。さっきの蜂蜜漬けとは違って、今度のはワイン蒸しだ。かなりな大粒で蝋燭の光を受けてキラキラ光って見える。


『ああ、いや、それはさっき夕食でも食べたんだ。』


「そうかい?飽きるほど食べたってのかい?・・・んーっ♡おいしっ」


 リュキスカはさっきと同じように自分の口に放り込んで美味しさをアピールする。


『やけに牡蠣を押すね?』


「だって、精が付くんだよ?

 牡蠣の蜂蜜漬けとかさ。

 牡蠣も蜂蜜もどっちも精が付くものだから、一緒に食べると元気になるんだ。」


 そこまで言うとニッと笑ってリュキスカがリュウイチの太腿に手を置き、身体を密着させて来る。


「お兄さんは若そうだから必要ないかもだけどさ♪」


 耳元でそう囁かれてビクッと反応したリュウイチから身体を離すと、リュキスカはクスクス笑う。


「食べるのはもういいのかい?」


『あ?ああ、だいぶ残しちゃったな。すまない。』


「かまやしないよ。余った分だけ店の子のまかないが増えるだけさ。

 あの子らも普段から目にしてるのに滅多に食べられない御馳走が食べれるんだ。だから嬉しいはずだよ。」


 じゃあそろそろ部屋に行くかいと誘おうとしたところで、野太いダミ声が無遠慮に響きわたった。


「おや、なんだいリュキスカ、アンタ客とってんのかい?」

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