第166話 湧きたつ厨房

統一歴九十九年四月十六日、晩 — 《陶片》満月亭/アルトリウシア



 厨房のフロアから見えない所まで来ると先ほどまでモンロー・ウォークをしていた娼婦はどこへやら、リュキスカは小娘のようにピョンピョンとその場で二回ジャンプし、上体をかがめて銀貨を握ったままの上腕で頭を挟みこむようにしながらタッタッタッタッと、腿がその豊満な胸に付きそうな程膝を高く掲げるように足踏みしてクルクルとその場で回る。


「・・・なんだ、どうした?」


 ついに気でも狂ったかと雇われ店長のヴェイセルが声をかけると、リュキスカは腿揚げをピタッとやめ、パッと顔をあげて厨房を見回す。

 その顔には満面の笑みが浮かんでいた。


「上客だよ!上客!!」


「上客ぅ?」


「ああ、あれは上級貴族パトリキ様のお忍びだよ!

 さあ一番上等なワインと料理を用意しな!

 今すぐだと何が出せるんだい!?」


上級貴族パトリキってマジか?」


「見なよ!

 『夕食は食べてきた』『一番おいしいお酒と軽く摘まめる物を』なんて言ってさ、デナリウス銀貨一枚ポンとだしやがったんだ。」


 そう言ってリュキスカはヴェイセルの鼻先に銀貨を一枚突きつける。


 現在レーマ帝国では税金はデナリウス銀貨で納めねばならず、軍団兵レギオナリウスや役人の給料をデナリウス銀貨で支払うことによって強引に市場に流通させているため、この店でも全く縁が無いわけでは無い。

 しかし、デナリウス銀貨は一枚で四セステルティウスに相当する。

 平均的な四人家族の一日当たりの生活費は一セステルティウス強といったところで、比較的余裕のある家庭でも一日二セステルティウスも使わない。

 この店の娼婦は通常、一回一セステルティウスで身体を売っていて、一番人気のベルナルデッタでも一回二セステルティウス。当然ながら、団体客ならともかく個人客がこの店でデナリウス銀貨で支払いをするなんてことはめったにない。遊んだとしても四セステルティウスも使う奴なんていないし、使ったとしてもデナリウス銀貨で払うのは軍団兵レギオナリウスの団体客ぐらいのものだ。デナリウス銀貨を銅貨に両替えする際は両替え手数料をとられることもあるからだ。


「どうだい?

 すり減ったり黒ずんだりしてないピカピカの新品銀貨だよ!?

 エッジだって尖ってて紙くらいなら切れそうなぐらいさ!」


 レーマ帝国の貨幣は裏面用の金型の上に一定の大きさに揃えられた素材を置き、上からハンマーみたいな形をした表面用の金型を重ね、それを上からハンマーで叩いて作る。当然、人力だ。

 品質は「精度?何それおいしいの?」状態であり、表面と裏面の図の角度や位置がずれているくらい珍しくない。そして、そういう作り方だからこそ、真円でもない。

 必ず、が出る。

 金貨・銀貨・銅貨はその貨幣の素材そのものに価値があるため、この一見邪魔でしかないバリの部分もその貨幣の価値の一部を成している。なので、形を整えるためにバリの部分を削り落とすようなことはしない。

 だから新しい貨幣ほどバリが鋭く広がっている。さすがに刃物のように切れるほど鋭いということはないが、リュキスカの言うようにバリを『エッジ』と呼んで鋭さを大袈裟に表現するのは、この世界ヴァーチャリアでは一般的な冗談の一つだった。


 古くなるとこのバリの部分がすり減って貨幣自体が小さくなっていく。当然、金貨なら金の、銀貨なら銀の、貨幣の素材の量が減っていくことになるので、あんまりすり減った物は同じ貨幣であっても額面より低い価値しか認めてもらえなくなることもある。

 だがリュキスカの見せた銀貨は言う通り全く黒ずみが無く、厨房の薄明りの中でもキラキラと輝いていた。



「ちょいとっ!アタイは料理は何が出せるんだって訊いてんだよ!?」


「お、おう!そいつぁ豪勢だな。

 ワインはちょうど『ギリシャ風』のイイのが出来てっから持ってけ。

 奥に羊のソーセージが吊ってあるから取って来い。豚の茹で肉と魚肉団子と…」


 銀貨に気をとられていたヴェイセルだったがリュキスカの声で弾かれたように気を取り戻すと、慌ててメニューを考えはじめる


 『ギリシャ風』とは、《レアル》のギリシャワインを指すわけでは無い。ワインに香草ハーブやスパイスや調味料を加えて色、味、香りを整えた添加物入りワインのことである。

 冷蔵技術はおろかガラスや磁器も普及していないこの世界ヴァーチャリアではワインを長期保存する事が出来ないため、味や香りが変質したものは添加物を加えて品質を整える必要があるのだ。だから醸造元のワイナリーであっても、生のままのワインを楽しめるのは蔵出しからせいぜい三か月しかないため、生のままのワインより添加物を加えたワインの方がこの世界ヴァーチャリアでは価値が高いのである。その中でも色、味、香りをバランスよく仕上げた物を特に『ギリシャ風』と呼んでいた。


 ヴェイセルは今すぐだせるメニューの中で上級貴族に出してもよさそうなものをピックアップしていく。だが、今少し本調子ではないようだ。

 『夕食は摂ってきた』という客の情報を忘れ、重たい料理まで並べ立ててしまう。



「重たいのはしとくれ!

 軽く食べれて・・・精のつくのがいいね♪」


「ハッハッ、なんでぇ、やる気じゃねえか。」


 ここんとこ客の入りが悪くて機嫌が悪かったヴェイセルも、にわかに活気づく厨房の空気にすっかり気を良くしている。

 張り切るリュキスカを揶揄からかうように笑った。


「当り前さね。やっこさんだってその気で来てんだ、逃す手はないよ!」


「じゃあ牡蠣かきの蜂蜜漬けと、おい、山羊乳チーズの良いのがあったろ!?

 あれ一皿だしな。

 小麦粉粥ポレンタは豆入りの…」


「ちょっと、話聞いてなかったのかい!?

 やっこさんは夕食を済ませてきてんだ、小麦粉粥ポレンタだのパンパニスだのなんか要らないよ。」


「あ!?ああ、そうか、そうだな。

 フルーツはどうする?」


「ドライフルーツのラード煮を一皿出しとくれよ。」


 フルーツの糖分の甘みとラードの脂肪分の甘みが絶妙に合わさったハイカロリーな保存食である。元々は野菜の獲れない冬場のビタミン源として広まっているものだが、酒に会うかというと好みの分かれるところであろうが、これから出そうとしている『ギリシャ風』ワインがひどく甘い事を考えると組み合わせとしては良くないだろう。


「そりゃお前が食いてえんだろ!?」


「いいじゃないか、どうせ御相伴ごしょうばんに預かるんだ。

 チーズだってあるだろ?

 ほかに何か無いのかい、豚の乳房とかヤマネとかカタツムリとかさ?」


「そういうのは事件の後あたりから急に値上がりしちまってな、入ってねえんだ。あと、カタツムリは季節じゃねえ。」


「いいさ、無いならしょうがない。ある分を早くしとくれ。

 そうだ、ワインと水の酒壺アンフォラ運ぶのに男手貸しとくれよ。

 一対二で割るからね。」


そうこうしている間に準備が整ってきた。


り麦は持ってくか?」


しとくれ、そんな貧乏くさい物。相手はお忍びの上級貴族パトリキ様だよ?」


近くにいた手隙の娼婦仲間に運ぶのを手伝うよう声をかける。


「ちょいと、マイユ、アンタ暇だろ?これ運ぶの手伝っとくれ。

 ハンナ!アンタも給仕手伝っとくれ、ちゃんとチップは分けてあげるからね。

 そうだね、手洗い壺レベースナプキンスタリオを運んどくれ。二つずつだよ。」


 ついでに皿洗いのハンナにも声をかけたのは、リュキスカは以前からハンナを目にかけてやっていて、チップを貰える機会を与えようと思ったからだった。

 ハンナは客の相手をするには若すぎるため、客にちょっかい出されないようにいつも皿洗いをやらされてるヒト種の少女だ。商家の娘だったが火山災害のせいで親が破産、その後病没して孤児になってしまったので、妹と生きていくためにここで住み込みで働いている。

 


「ペッテル!ほら、お代だよ。

 お釣りはチップで手伝ってくれた子らに分けるからね、細かくしといておくれ。」



 リュキスカはそう言ってペッテルにデナリウス銀貨を渡して「ちょろまかすんじゃないよ」と念を押した。

 そして自分自身は棚から空っぽの混酒器クラーテールに柄杓とし布を入れ、手伝いに来た男に「これ運んで」と手渡すと、銀の酒杯キュリクス二つを手に取る。


「じゃあ行くよ。ついといで!」

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