43.狸爺三 - 試し一

 途端と老人は先ほどまでの人の良い隠居と言った雰囲気をなくし、一層に皺が濃くなり急激に老いが深まったようにすら見えた。

 狼狽えた様子でしきりに何度も額を掻いては溜息を漏らすと、ぎりぃっと老人は大仰にも歯ぎしりを鳴らす。


 一体何が書かれていたのか、見る見ると変化していく老人の態度に、桔梗ききょうは中身が気になってしまいながらも、それを聴くことが許される立場ではないと自重して、たまさかにさえ紙に書かれていることが視界に入らないようにと目を伏せていた。


 何度目かの溜息を吐き捨てた後、ようやく老人は紙を畳んで自分の胸元へと納めた。

 落ち着かぬ様子で煙管きせるを吸い込み、一つ煙を吐き出すと、そこでようやく考えがまとまったのか、桔梗ききょうへと向かって、じろりと瞼の奥の濁った瞳を差し向ける。


「そうだな、いや……ううむ……どうするべきか、どうか……いや……まあよい。おい、桔梗ききょうよ。」

「はい、何でしょうか?」

 慌てて桔梗ききょうは顔を上げると、老人は苦々しい表情を浮かべながら頷く。


「うむ。一仕事を終えて早々ではあるのだが、頼みたいことがある。もう一働きする気はあるか?」

「はっ、はい。この桔梗ききょう。お望みとあれば、すぐにでも働く用意があります。」

 何が何やら分からなかったが、桔梗ききょうは酷く生真面目にそう答えると、恭しく頭を下げていた。


「そうか……うむ。よし。」

 目の前の人間が自分に素直に従うことに、多少の自信を取り戻したのか、桔梗ききょうの返答に老人は満足気に頷く。

 桔梗ききょうは頭を再び上げ直しながら、事情が分からずに戸惑った表情で老人の顔を覗き込む。


「あの……一つ確認したいのですが、それは今お渡ししました文に関わることなのでしょうか?」

「うむ、それは、そうなの……だがな……。」

 何か言葉を詰まらせた様子で、老人は眼球だけを動かして、ちらりとふでへ視線を向けた。


 はたと、桔梗ききょうはその視線に感づいて、同じようにふでへと顔を向ける。

 桔梗ききょうはそれが、部外者に情報を知られたくないと言う意思表示なのだと合点した。


「こちらのふで殿が気になるのでしたら、一旦席を離れていただきましょうか?」

 桔梗ききょうがそう言ってみると、老人は煙管へと口を吸い付けると思案顔を浮かべた。

 そうして、煙を吐き出すとともに、ゆるりとふでへと視線を向けた。


「いや、ちごうてな……。どちらかと言えば逆と言うべきか。……筆殿ふでどのと言うたか、桔梗ききょうが褒めていた其方そなたの腕前を少し見てみたいのだが。」


「ほう。腕前、でございますか?」

 二人の会話にも我関せずと茶を啜って味を楽しんでいたふでは、老人の言葉に初めてそちらへと視線を向けた。

 突然老人がそんなことを言い出した理由わけがわからず、慌てて桔梗ききょうが口を挟む。


「ど、どうして急にそのようなことを……?ふで殿に何か関わることでもあるのですか?」


「いやなに、貰った文の内容に関することなのだが……。事と次第によっては、そちらの筆殿ふでどのに頼みたいことがあるのだ。」

「頼み事は兎も角、私が腕前を見せるのは構いませんがね。」

 椀を畳へと置いてふでが顔を上げてみせると、なればと言うように老人は手を叩く。


 すぐに襖が開いて、廊下から二人を部屋に案内した眼鏡の家令が顔を覗かせる。


「いかがいたしましたか?」

「おう。虎丸とらまるを連れてまいれ。ご客人の腕前を確かめたい。」

「虎丸を……?」

 老人の言葉に家令の男は僅かに目を丸くした後、「承知いたしました」と何とも恭しい態度で頷いた。


* * *


十三


 ふでは屋敷の庭へと足を踏み入れていた。


 老人の屋敷の庭は、とにかく広く、枝ぶりの長い木々や丸っこく形を切り揃えられた低木も生えてはいたが、縁側から降りたすぐには、一面に粒子の細やかな砂地で出来た真っ平らな地面が広がっており、武術をするのにはもってこいの環境であるように見えた。


 庭に生える木々の間からは、蝉の鳴く煩わしい声が響いてきたが、広いこともあってか、どちらかと言えば町中にあるとは感じられぬほどに静やかでもあった。


 更に見回してみると、庭の一角には、巻き藁やら弓を試すための的すらも置いてあるのが分かる。


 遠くへと目をやってみれば、一応に名家の庭なのだろうと感じさせるような、池やら、灯篭やら、と見るために設えられた景色も見られるには見られたが、少なくともふでが居るそこは荒事をするように用意された場所であるようだった。


「一応は武家なものだからな。槍や棒を振り回しても困らんようには作ってある。もっとも儂はやっとうの類はとうに引退してしまったがな。」

 縁側に腰を落ち着けると、老人はゆるりと煙管を吹かせた。


 自慢の庭でもあるのか、その表情はどこか得意げですらあった。

 桔梗ききょうはと言えば老人から一歩引いた位置へと膝を下ろし、板張りの縁側へと正座をしながら心配そうにふでの方へと視線を向けていた。


 その視線に気が付いたのかふではちらりと桔梗ききょうへと目を向けると、心配するなとでもいうように、軽い調子でひらひらと手を振って見せる。

 それを桔梗ききょうは一層に心配そうな表情で返すものだから、ふでは苦笑いをして首を振った。


「はてさて、全く何の因果でしょうかねえ。」

 軽く言ちながら吐息を漏らすと、ふでは庭を一瞥してから空を眺めあげる。


 先ほどまで空を覆っていたらしき大きな灰色雲の塊が、ゆっくりと形を変えながら北へと流れていき、隠れていた太陽が顔を出した。その日差しを一瞬遮って空を西から東に向かって、一羽の燕がひらりと身を返しながら飛び去っていく。既に中天からは幾分か傾いた日差しは、庭の木々に背の低い影を作っていく。


 体を動かすにあたって暖かくなるのは結構だったが、汗が噴き出すまでには終わらせてしまいたいものだと、空を眺めていた視線をふでは足元へと向けた。

 砂地の上に足を滑らせて、踏み心地を確認すると、ふでは最後に老人に向かって目線を移ろわせる。


「しかし、私を試そうと言うのは構いませんがねえ。試すなどと言いましても、私は加減など出来る性質ではございませんよ。後でやりすぎなどと言われても困りますからね。」


 ははっと、老人は軽く鼻で笑う。

 その言葉には、ふでの言うことを真剣には受け取っていない、そんな調子があった。


「構わんよ。うちの者も怪我には慣れておる。まあ先ずは、お主の方が無事であれば話であろうがな。」

 にまりと笑って言った老人の言葉を聞いて、その傍らに居た桔梗ききょうは僅かばかり目を丸くする。


「そんな荒っぽいことになるのですか?あの筆殿ふでどのは私を助けてくださった方ですので、あまり怪我をするようなことは……。」

「心配か?お主が言うには大した腕なのだろう?」


 問われて桔梗ききょうは言葉に詰まってしまう。

 それでも、不安な心持が勝ったのか、躊躇いがちに口を開く。


「そうですが……、心配は心配になりましょう。」

「まあ、試すだけだ、死ぬことはなるまい。おい、虎丸。」

 老人に名を呼ばれて縁側へと控えていた男が一人、庭へと足を下ろした。


 虎丸と呼ばれたその男は庭へと降り立つと、平らな砂地の上をゆっくりと歩き、ふでから五歩ほど離れた位置へと立ち止まる。

 その虎丸と言う男は特段に偉丈夫と言った背格好でもなかった。


 ただ、奇妙なほどに腕が長かった。

 だらりと下ろした腕の先は、そのまま膝に触れられそうなほどに長く見える。


 その細長い腕には、一本の長い棒が握られていた。

 細く長く、そして先端を布地で包んだ、訓練用の模擬槍であった。


 虎丸が少し膝を曲げて、ふでに対して正眼に構えると、縁側から老人が声を掛ける。


筆殿ふでどのとやら、其方の獲物は何にする?訓練用の物であれば何でも出そうぞ。」

「何でも扱えますが、そうですね。差し当たっては刀などをいただければ。」

「そうか、では木刀を使いなさい。」


 老人は縁側へと控えていた眼鏡の家令に指示を出して、ふでの元へと一本の木刀を運んでいく。


 家令の手から木刀を受け取ると、その刀身をじいっと眺めたかと思うと、不意に虚空に向かって一度腕を振って見せる。


 木刀が空を滑り、ふっと風を切る音が鳴った。


「まあ、宜しいでしょう。悪くありません。」


 言いながらふでは木刀を握りしめると、虎丸へと向けて正眼に構える。


 対峙する虎丸も、棒の先をふでへと向けて持ち上げた。


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