17.道行四

 途端、空気を劈く音が周囲に響き渡った。

 闇夜の中に、煌めく刃先が一直線に軌跡を描かれていく。

 勢いを増して振り下ろされる男の刀の、その切っ先を、ふではゆるりとした動きで避けていた。


 いや、避けたというよりは刃の向かう先に居なかったという方が正しかった。

 男が振りかぶった瞬間には、すでにふでの姿は刀の輝線きせんから外れていて、その動きが余りにも自然であったために、男はあらぬ方向に刀を振ったようにすら見えた。


 ふわりとふでの髪が僅かに舞って、その毛先だけが刃先へと触れると、短く細切れて虚空の中へと散っていった。


「ああんっ?」


 避けられたのが信じられないように男は素っ頓狂すっとんきょうな声を上げた。

 するりと避けたふでの体は、そのままに素早く回転して、足を跳ね上げると男の腹へと蹴りつける。

 勢いよく遠心力をつけた足先が、男の腹へと突き刺さった。


「ぐぅっ……!?」


 爪先が右脇腹の下方を突き刺し、肋骨に覆われていない箇所の内臓を揺らした。

 僅かに男はうめき声をあげて、悶絶しながら体を屈ませる。


 瞬間。

 男の動きは完全に止まっていた。

 その僅かな隙だけでふでにとっては充分であった。


 途端、ふでの刀緩く円を描いて切っ先を舞わす。

 鋭い刃先が男の手首をするりと撫でた。


 気が付けば。

 ぽとり、と男の左手首が地面へと落ちていた。


「ぎっぃぃぃっ!」


 体に走った痛みに叫び声をあげると、咄嗟に男は身を引いた。

 同時に地面に刀が落ちて、からんからんと奇妙に軽い音を鳴らす。


「俺の腕ェっっ!!」


 斬られた腕の先を抑えながら、男は酷い形相でふでを睨みつける。

 その手首からは、指先程度の力では抑えきれずに、赤黒い血がぴゅっぴゅっと鼓動に合わせ、どこか滑稽な勢いで噴き出ていく。


 痛みをこらえているのか、ふっふっと浅く短い呼吸を繰り返して、男はくっと唇を噛みしめた。

 その一方で、ふで飄々ひょうひょうと緩い表情を浮かべ、目の前の男を見降ろしていた。


貴方あなたは兵法家の類ではございませんね。太刀筋が単純でつたなすぎます。ただ身のこなしには覚えがあられるようですから、差し当たり、貴方あなたも隠密の類と言ったところでしょうか。」


 つらつらとふでが言うと、男はその言葉を鼻で笑った。


「そら……そうよ。」


 手首を切り落とされながらも、男の態度にはどこかまだ余裕があるようにも見える。

 その雰囲気に、ふではおやっと感じて刀を構え直していた。


 男が抑えていた手首から掌を離し、素早く自らの懐へと右手を突っ込んだ。

 ふっと、男は懐から手を取り出すと、やにわにその腕を振るう。


 不意にふではすっと足を滑らせて、そのたいを横にずらした。

 次の瞬間、ふでのいた場所を何かが通り抜けた。

 風を切る音がして、桔梗ききょうのいた足元へとその何かが突き刺さった。


「ひっ!?」


 思わずたじろいで、桔梗ききょうは軽く飛びのいてしまう。

 ふでに躱されたのを感じて、男はチッと舌打ちを鳴らした。

 桔梗ききょうは恐る恐ると屈みこんで、地面にぶつかったそれに手を伸ばす。

 拾い上げ月明かりの中で目を凝らしても、それの外形は見えづらく一瞬何であるかは判別がつかなかった。


 それは黒鉄くろがねで出来た、掌ほどの長さのものであった。


 片側は細長く尖り、先端から中央に向かって平たく広がっていくさしずめ刃物の様になっている。そうしてもう片側には細く短い棒のようになり、丁度柄のようにして握りこめる形になっていた。そこでようやく桔梗ききょうは自分に多少の馴染みのある道具を思い浮かべる。


「苦無と言う奴ですかね。」


 桔梗ききょうの手に持っていたそれを、一瞥もせずにふでは言った。

 確かにそれは苦無であった。


 形は自分の使うものと多少異なっていたが、基本的な構造は同じような物で、隠密が使う道具の一つであった。短刀のようにして斬りつけることは勿論、土を掘るのにも使え、縄を括り付ければ何かを縛るのにも、屋敷に潜入するときには木へと投げつけて塀を上るのにも使える便利な道具であり、武器であった。


 もし仮に、男の投げつけた苦無がふでへと当たっていれば、肌深くへと突き刺さったはずだった。

 桔梗ききょうにとって不思議であったのは、この苦無は黒鉄くろがねで出来ており、闇の中へと溶けて目視できるようなものではなかったと言うことだった。


 それをふでは苦もせずに避けていた。

 いや、と桔梗ききょうは首を振る。それだけではない。

 仮に飛び道具と見当をつけ、たまさか避けることは出来るかもしれないがそれが何であるか等と分かるだろうかと、桔梗ききょうは手に持った苦無を握って僅かに息を飲んだ。


「刀を振るよりは、随分と手慣れてらっしゃる。」


 軽くそう言ったふでの言葉には、感心しているのか、皮肉を言っているのか、良く分からないような調子があった。

 男ははんっと忌々し気に鼻を鳴らす。


「当然よ。こちらの方が本職だ!」


 まるで獣が唸ったように男は吼えた。

 その声には脅しの入り混じった響きがあったが、ふでは気にも留めずに肩をすくめる。


「しかし、この程度の距離で飛び道具など無意味でございますよ。振りかぶって、そして投げるなどと、してる暇はありますまい。」

「なにを!」


 猛った声を上げて男が懐へと手を突っ込んだ。

 素早い動きで胸元に潜ませていた苦無を取り出す。


 と、

 次の瞬間、男の目の前にふでの顔が迫っていた。


 ふでは地面を思い切りに駆って、一気に距離を詰めていた。

 酷く引き攣ったように、にいっと口角を釣り上げた奇妙な笑みがそこにあった。



「ほら遅い。」


 緩く、穏やかで、そして酷く楽しそうな声だった。


「いっ!?」


 男が慌てて苦無を振り上げようとした時には、既に遅かった。

 蛇のように軌跡をうねらせたふでの刀がするりと滑ると、男の体を袈裟掛けに刃先が通っていく。


 刹那に、血飛沫が空気の中に滲み上がった。


「あっ……がっ……。」


 狼狽して男が自分の体の、斬られた箇所を手で押さえる。

 掌から零れた苦無が、音を立てて地面に転がった。


 胸元をぐっと握りしめるが、体が、腕が、どうしようもなくまともな位置からズレていくのを感じて、男はすがるようにふでを見上げた。

 僅かに雲塊が空を横切り、月影すらも無くなった景色の中で、ふでは小さく首を振るった。


「嫌だっ……。」


 言葉にならない声を上げた時には、男の体は既に土の上へと倒れ込んでいた。

 どさりと音を立て、乾いた地面に砂埃が舞い立ったかと思うと、その上に噴き出した血が降りかかって、すぐに土埃が消えていった。


 一瞬、周囲を静寂が支配した。

 傍らで眺めていた桔梗ききょうは息をのみ、そして男の体が倒れたのを見て思わずほっと息を漏らす。

 そろそろと足を忍ばせてふでへと歩み寄った。



「終わりましたか?」


 そう声を変えると、ふではくるりと振り返った。


 ふっと緩い笑みを浮かべたので、桔梗ききょうは安堵して胸を撫で下ろしてしまう。


 それも続くふでの言葉を聞くまでのことだった。



「いやはや、だでございますよ。」

「え?」


 それはどういうことかと桔梗ききょうが尋ねようとする前に、ふでが思い切りにその胸襟を掴んでくっと引っ張り込んだ。



「うえっ?」


 体を引かれた桔梗ききょうは姿勢を崩し、勢い良くふでの胸元へと顔を突っ込ませてしまう。


 ふよりと、ふでの胸の膨らみが弾んで、思いの外に柔らかい感触がした。


 途端、桔梗ききょうが元居た場所へと刀がするりと走った。

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