15.道行二

 階段を下りて宿の玄関へと近づいてみると、足音に気が付いたのか奥から一人の女性がひょいっと顔を出してきた。部屋で大男を斬ったときに現れた宿娘だった。


「お客さん。どうかされたんですか?」


 こんな時間に外へ出ようという二人に違和感を持ったのか、宿娘はとっとっとっ、と軽い足音をさせて二人の元へと近づいて来る。 玄関の壁にかけられていた草鞋わらじの一つを取りながらふでは娘の方へと顔を向けた。


「いえ、もう出て行こうかと思いまして。数えて十日でしょうか、幾日にもわたってお世話になりました。」 


 軽く頭を下げてふでがそう言うと、宿の娘は僅かに目を丸くする。


「出て行くって、もうすぐ夜になりますよ。危ないからよした方が良いですって。」

「それは承知の上でございますよ。急ぎの用が出来ましたので。」


 それ以上説明する気もなかったのだろう、余りにもさぱりと言ったふでの言葉に、宿の娘は「そうですか……」と少し言葉を濁しながらも素直に引き下がった。宿をやっていればそう言うこともままあるのだろう、それ以上、娘側も何か言う気はないようであった。

 逆に傍らにいた桔梗ききょうが、はたと聞きたいことを思い出して宿の娘へと顔を向けた。


「あのう、ここからだと、名古屋へはどちらに向かへば良いのでしょうか?」


 知らぬ間に連れてこられた宿である。

 どこをどう行けば目的地へと付けるのかが分からなかったし、隣で素知らぬ顔をしているふでは信用できなかったというか、好んで危険な道にでも行きそうな気がして尋ねていた。

 宿娘は一度「ああ」と軽く頷いた後、考える素振りを見せて、ついっと玄関の右手方向に指を伸ばした。


「名古屋ですか。それなら宿を出て西……ええっと右に伸びている道を真っすぐ行けば着きますよ。」

「右に、ですか、ありがとうございます。」


 桔梗ききょうは、自分の知っている道と、然程さほど離れていないことを感じた。

 礼を言って体の前で指を重ねると、桔梗ききょうは丁寧に頭を下げる。


「え?いや、別に。そんなお礼を言われることではありません。」


 こんな安宿では滅多に見ることのない丁寧な態度に、宿娘は面喰ったように言葉を詰まらせた。

 どうにも場所慣れしていない桔梗ききょうの様子に、くすりと小さく笑いながらふでは土間へと足を下ろすと、草鞋わらじの紐を指の間に通して、足首へと結び付けていく。ぎゅっと紐を閉め終えると、手に持っていた笠をかぶって立ち上がった。


 そのころには桔梗ききょうも同じように草鞋わらじを履き終わっていて、体をほぐす様にして背を伸ばしていた。

 娘へと別れを告げて玄関から出てみると、空は既に幾分と陽射しが傾いていて、浅く斜めに差し込む紅色が周囲の山の縁へと淡く掛かり始めていた。

 地面には細い影が長く伸びて、全体的に薄暗く感じてしまう。


 烏の数羽が緩く西の空へと飛んでいき、寂寥せきりょうとした鳴き声を上げたのが、桔梗ききょうには道行の不安を掻き立てるようで妙に嫌な感じがした。玄関からすぐに左右へと伸びた道は、どちらも人影はなく、左手の道は家屋の連なる町並みへと続き、一方で右手側の道は遠く畦道あぜみちの走る田園の間を通り山へと伸びていた。


 どちらにしろ、酷く閑散としてしまっている通りを眺めながら、宿娘が言っていた通りならば右に行けば良いのだろうと、桔梗ききょうは山の方へと向けて視線を移ろわせる。


 体の調子を確かめるようにして桔梗ききょうが一二度高く足を上げてみると、僅かに傷を負った腹部へ刺すような痛みが走った。

 ただそれでも、この程度なら大丈夫だろうと、傷を抑えてふうっと息を吐く。


筆殿ふでどの。急ぎますから少し駆けようと思いますが、大丈夫でしょうか?」

 桔梗ききょうが尋ねると、ふでは両手をふらふらと振って見せる。


「お好きなようになさってください。」


 これからそれなりに長い道のりを行くというのに、ふではどこか近所を散歩するかのような気楽な雰囲気を漂わせていて、本当に大丈夫なのかと桔梗ききょうは心ばかり心配になりながらも、とりあえずと西の道へと向かって歩き始める。


 その後ろを、ゆるゆるとふでもついて歩き始めてくる。

 早歩きに進み始めた二人の足は、次第に軽く駆け始めていき、道脇の青々と茂った雑草の満ちるあぜ道と、膝丈までほど稲の育った田んぼとが、視界の端で幾反も移り変わっていく。少しだけ気になって桔梗ききょうは後ろを振り返ってみる。そこには笠を被ったふでがけろっとした顔でついて来ていた。


「あれ……?」


 微かに、その姿へ奇妙さを覚えながら、桔梗ききょうにはそれがなんであるか良く分からずに、視線を道先へと戻す。

 どんどんと暗くなっていく道行を進んでいくと、周囲には足音以外、風に棚引く草木の音が鳴るだけで、どうにも陰鬱とした雰囲気が余計に増していく。


 そこではたと桔梗ききょうは先ほどふでに感じた奇妙さのことに思い至った。

 彼女は自分と同じように駆けているにも関わらず、刀が揺れたときの鞘が擦れるような音を鳴らしていなかった。


 改めてふでの方へと振り返ると、彼女は確かに腰へと刀を差していて、それが走る体に合わせて上下していた。ただその刀の鳴る音は、耳を凝らさねば分からぬほどに小さくて、何故そんなことが出来るのか桔梗ききょうには不思議だった。


「あのぉ、筆殿ふでどの?」

「何でしょうか?」

「どうして、走っているのに刀が鳴らぬのです?」

「上に向かって走らずに、前に向かって走っているからですよ。」

「なるほど?」


 ふでの説明に全く納得はできなかった。

 しかし、走っている間では詳しく尋ねることも出来ず、奇妙だと思うだけで桔梗ききょうは顔を正面へと向き直させる。


 道を走っていくうちに田園然とした景色は、次第と山の林の合間を走るようになっていき、鬱蒼うっそうとして背の高い針葉樹林の並び立つ道の中へと入っていく。陰樹に囲われた道はどこもかしこも暗く、それどころか山に入ってからすぐに太陽も地平に消えて、とっぷりと夜の帳が落ちしまった。


 坂道の中で桔梗ききょうが僅かに顔を上げると、紫紺色の空には所々星が見え始めてきてしまうほどであった。


「もう先が見えませんね……。」

「山の中に入ってしまいますと、どうしても暗くなりますね。」

「ここから先は歩きましょうか。」


 もう少し先に進んでしまいたかったが、流石に道行が不確かになってきて、そろそろ走るのも無理だろうと桔梗ききょうは駆けらせていた足の速度を緩める。


「ご随意に。」


 僅かにふでは機が遅れて二三歩ほど余計に走りながらも、すぐに気が付いたようで、同じようにして足の動きを緩めた。勢い後ろについてくる形になっていたふでが、桔梗ききょうの傍らへと追いついた。


 歩速を落としてみると、途端に息が切れる感覚がして、桔梗ききょうの額にはぶわっと球粒となった汗が湧いて来る。

 随分と長く走ったこともあり、桔梗ききょうは胸を大きく上下させ肩で息をしていたが、傍らで同じように歩き始めたふでは、全くも息が切れていないように穏やかな様子で歩いている。


 笠の下から覗く顔にも殆ど汗をかかず、けろりとした表情を見せているので、桔梗ききょうは僅かばかりに驚いてしまう。



筆殿ふでどのは体力がありますね……。私などは、ちょっと駆けただけで、もう大分息が上がってしまったのですが……。」


 感心して桔梗ききょうが言うと、ふでは頓着のないような顔で首を振った。



「なに、修練よりは楽な物ですよ。型の稽古の時などには足腰が立たなくなるまで繰り返し棒を振り続けておりましたからねぇ。それと比べれば軽い運動のような物です。」

「それにしたって……私も武士の方とは会ったことありますが、筆殿ふでどのほどに体力のある人は見たことありませんよ。」

「はあ、そうでございますか?……まあ、その方々は軟弱だったのでしょう。」

「いや、それは流石に……。」


 これ程までに体力のある人はそうそういないだろうと桔梗ききょうとしては思っていたが、ふでの口調はいたって真面目なようだったので、どこか本気でそう思っている節が見受けられた。


 これまでの言動や態度から、桔梗ききょうはこの人は一体、どういう育ちをしてきたのだろうかと思ってしまう。


 危険に面白がって首を突っ込むところや、あの腕前を見るに、自分とは全く違う環境で生きてきたのだとは推測が付く。ただ、それがどう捻くれた場所に居ればふでのようになるのかは全く想像がつかなかった。


 見た目にも彼女は歳の二十を数えるくらいだろうかと感じられながらも、屈託のない笑みを浮かべた時は同い年のようにも見えることもあり、どうにも不祥な所が多かった。妖魔の類と言われても納得してしまいそうだった。


 そんなことを桔梗ききょうが考えていると、不意に傍らを歩いていたふでが足を止める。



「あ、桔梗ききょうさん。ちょっと足を止めてもらえませんか?」

「へ、あ……はい。」


 顔には見せないが流石に疲れているのだろうか、そう感じてふでの方へと桔梗ききょうは足を止める。


 途端に、桔梗ききょうの目の前を何かが勢い良く過った。


 ひゅっと空気を斬る音が響き、微かに桔梗ききょうの髪が靡く。



「ひあ!?」


 突然過った何かに驚いて、桔梗ききょうは咄嗟に後ろへと体を引いた。


 余りにも慌てたために、その足はもつれて桔梗ききょうは姿勢を崩す。



「あわわっ!」


 何が起きたのか分からずに素っ頓狂な声を上げた時にはもう遅く、桔梗ききょうは後方へと体を倒れ込ませていた。

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