10.秘密二

「あの……私もここに来て良かったんでしょうか?」

「良いんじゃないですか?とりあえず、ずっと立っているのも疲れましょうし、お座りになったら如何いかがですか?」


 空いた掌をちょいちょいっと上下に動かしてふでは言う。座れと言う意味なのだろうと察し、遠慮しながらも桔梗ききょうは膝をまげて床へと腰を下ろす。

 小水しょうすいを漏らしてしまったゆえに、濡れた服がびちょっと僅かに湿っぽい音を立てた。


「さてさて。それで、どうして来ては駄目ではないかと、そう思われたのです?」

 言いながらふでがくっと指先を握りこむと、布にはすぐに血が染み込んで赤くなっていく。


 何度も握り指が問題なく動くことを確認すると、それで気が済んだのか、ふでは窓の戸へと背を傾けて寛ぎ始めている。

 桔梗ききょうはどちらかと言えば、自分で問うたことの返事すらも、意に介していない様子に僅かばかり眉を顰めてしまう。


「いえ、私には貴女あなたに世話になるいわれがないので……。倒れている所を助けて貰った恩も返せませんし……。」

 桔梗ききょうに言われて、ふではふむっと掌で顎を撫ぜた。


「そういうものでしょうかねえ。勝手に私が助けたのですから、貴女あなた様も元気になるまで勝手に助けられておけば良いのではないでしょうか?」


 まるでつまらないことを聞かれたとでも言うようにふでは外へと視線を向けてしまい、桔梗ききょうはむしろ困惑してしまう。

 それは自分にとって都合の良いが、本当にそんな都合の良く助けられるようなことがあるだろうかと言う気持ちの方が強かった。


「そんな都合の良いことがあって良いんですか?なにしろ、私には宿代も何も差し出せるものがないぐらいですし……。」

 もじもじと指先を重ね合わせ、金がないことを恥じらうようにして桔梗ききょうは言った。


「差し出せるものならあるとは思いますがね。」

 窓へと背を凭れかけさせていたふでは、ちらりと顔を桔梗ききょうに向けると、その肢体を上下に眺め見る。



「え……一体何をですか?まさか……。」


 するりと舐めるように肢体を上下するふでの視線に、僅かばかり緊張して桔梗ききょうは身をたじろがせてしまう。

 一瞬、桔梗ききょうは視線を左右させてこくりと喉を鳴らすと、自分の肢体が彼女に撫でまわされるのを想像してしまい、恥じらいで顔を一気に赤くし、ふるふると必死に顔を振る。


「だ、駄目ですよ……。それは……。」

 あまりにも狼狽して、そう言う桔梗ききょうの様子を眺めていたふでは、くすりと小さく笑う。


「冗談でございますよ。ですが、ありますでしょう?出せるものが。」

 妙に意味ありげな声色で、ふでは言った。


「えっと……。」

 思い当たらずに桔梗ききょうは首を傾げてしまう。


貴女あなた様の秘密ですよ。どうして木から落ちてきたのか、懐から出した封筒の意味。わたくしは多少なり興味があるのですけれどね。教えてはくれませんか?」

「そ、それは……。」


 急に言い淀んだかと思うと、それ以上桔梗ききょうは口を噤んで押し黙ってしまう。ただ何も言えないことを気まずく感じているのか、ふでからも視線を外して、口を結んだまま部屋の隅を眺めて再び両手をひっきりなしに擦れ合わせている。


 肩をすくめるとふでは大きく吐息を漏らした。



「ま、言うておいてなんですけれどね。実際の所、わたくしとしては貴女あなた様が何も喋らずにここに居座ってくれても、なに、全く構いはしないのですよ。大体からにして、対価のようなものは既に得ましたからね。」

 ひらひらと左の手を宙に舞わしてふでは素知らぬ表情を浮かべる。対価のことなど気にするなとでも言う風であった。


「対価?いったい何のことでしょうか?」

「先ほど襲って来たあの大男のことでございますよ。あの男は、大方おおかた貴女あなた様を追ってこられたのでしょう?」


 言いながら床から片足を離したふでは、窓の桟へとその足の裏をのっけると片膝へと頬杖をつきながら目筋を細めて桔梗ききょうへと尋ねる。

 桔梗ききょうは一瞬、口を真一文字に結んだあと、左右に視線を惑わせながら、躊躇いがちに頷く。



「分かりますか……?」

「それはね。それぐらいは分かりますよ、貴女あなたわたくしもさほど頭は良くないですがね。その程度のことは、自明のことですよ。」

 自嘲する口調でくすくすと笑いながらふでは言った。


 それは確かに切り傷を負って倒れていた人間を連れんだところへと、匕首を構えて押し込んできた人間が居たのならば、明らかにその怪我人を追って来たのだと分かることである。


 ただ、言ってしまえば、それは厄介ごとでしかなく、それを対価などと言うふでの言葉が桔梗ききょうには意味が分からずに戸惑ってしまう。



「確かに……、あの男は私を襲って来た者です。しかし、一体それがどうして対価になるんでしょうか?あれはどちらかと言えば迷惑の類では?」

 思ったままのことを桔梗ききょうが口にすると、ふでは首を振る。


「迷惑などと、そんなことはありもしませんよ。金も手に入りましたしね。」


 懐へと手を突っ込み、ふでは先ほど男から奪ったきんちゃく袋を取り出すと、左右に軽く振るった。布越しにじゃりんと幾枚もの金属の擦れ合う鈍い音が響いた。宿娘に半分ほど渡したと言っていたが、それでも袋の中には幾許いくばくかの銭が残っているように見える。


 そうして綾絹のような滑らかな声で「それに」と呟くとふでは言葉をつづける。


「なによりも、私は腕試しで日ノ本を回っていると告げましたでしょう?ただ、何と言いましょうか。何分、わたくしも粗野なものでございまして、ああやって大っぴらに人が斬れれば、それで満足なのでございますよ。」

 ふふっと軽く笑ったふでの言ったことに、桔梗ききょうは思わず目を丸くしてしまう。


「えっと……ええ……?」

 小さく声を漏らしながら、桔梗ききょうは困惑していた。


 言ってしまえば目の前の女性が言っていることは、今さっきのように人が斬りたいから厄介ごとを抱えてそうな自分を助けたのだと、そう言う話であった。


 端々だけを捉えれば論理はある様に聞こえながらも、人を斬りたいために人を助けたなどと矛盾したことを平然と語っている。

 桔梗ききょうに取ってみればまともな人間の言い分にはまるで思えなかった。


「あの……ちょっと何を言ってるか、意味が分からないのですが……。」

「おや、分かりませんでしょうか?」


 あまりにもしれっと言うふでの態度に、自分の方が変なのではないかと言う気さえしてきてしまうが、桔梗ききょうは戸惑いながらも首を振るう。


「全く……。」

「気が合いませぬね。残念です。」


 そう言いながらも、全く残念そうに感じられない様子でふでは肩をすくませる。

 桔梗ききょうは一つだけ気になって、ふでへと尋ねる。



「人が斬りたいというのなら、私を斬りたいとか考えてたりするのでしょうか……?」


 聞くに躊躇とまどわれたが、それを聞かぬことには安心できなかった。

 ふでは軽く首を振る。



「襲ってくる気もない者を斬りたくはなりませんねえ。わたくしも多少の、大義名分みたいなものは欲しいのです。」

 その言葉に微かながら桔梗ききょうは胸を撫で下ろす。


 ただ、目の前に居るのが頭のおかしい人間であることは間違いなかった。


 話が通じるように見えて、折々に倫理観の当てが外れたようなことを口走っている。

 そんな人間の言うことを、すんなりと信じることは出来ず、桔梗ききょうは完全には警戒心を解いていなかった。


 しかし、とも桔梗ききょうは心の中で思考を巡らせる。


 少なくとも桔梗ききょうが倒れている所を助けてくれたのは事実であり、襲って来た男を退けてもくれた。


 なによりも河原の立ち合いや、先ほどの手管を見るに、ふでと言う女の剣の腕は明らかに立っていた。


 覆面の男を斬った手口も鮮やかったが、河原での立ち合いも見事に一太刀で腕に覚えがあるだろう者を斬り飛ばしていた。

 さらに言えば、ほぼ手傷を追わずに済ませている。



 言葉さえ信じることが出来ればあるいはと、桔梗ききょうは悩みながらふでへと顔を向ける。



「あの、筆殿ふでどのと申しましたか……。」


「ええ、ふででございますよ。」


 名前を呼ばれたのがなにか嬉しかったのかにこやかにふでは頷く。


 桔梗ききょうはその屈託のない笑顔に僅かばかり心の虚を突かれながらも、足を正座に組み直し、ふでへと向かって頭を下げた。


筆殿ふでどの貴女あなたが聞きたいと言っていた、私が襲われた理由を話そうと思います。


「ほう、それは――」


「ですが、同時に貴女あなたにお頼みしたいことがあるのです。」


「ふむ……?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る