第79話 2 時間がない

 この世に金よりも大切なものは、いくつかある。決して多くはない。

 命がそうである。延命治療などに必要な金銭、などといった面では金でどうにかなるが、死んだ者は生き返らない。

 映画で言われるような、愛は金では買えないというのは、ある程度事実だと思う。しかし愛だけを食べていくわけにはいかない。愛を失わないためには、最低限の金は必要だ。


 そして今の国立にとって最も必要なもの。

 それは時間だ。

 時間だけは何をどうしようと、増やせるものではない。

 練習を終えた後の回復。これにさえ時間が必要となる。


 練習は量より質。それは国立にも分かっている。

 だが最低限の戦力に持っていくための、最低限の量が、この場合は必要なのだ。

 白富東の山手監督は、トレーニングの最新理論を持っていた。

 その中には旧式のトレーニングどころか、国立が最新だと思っていたトレーニングさえ否定するものがあった。


 たとえばピッチャーのロードワーク。

 心肺機能を高める上で、悪いものではない。だが単純に走りこめばいいというものでもない。

 あまり長距離を走れば、肉体はそのためのエネルギーを、溜めてあるエネルギーではなく、筋肉や骨を削って引き出してしまう。

 折角の筋肉や骨の強さを失うわけで、これでは本末転倒だ。

 ロードワークは、下手をすればしない方がマシでさえある。


 あと、足腰を鍛えるためのランニングも、ほとんどは意味がない。

 野球というスポーツの中で、中途半端な速さで長く走る場面がどれだけあるだろう。

 ほとんどの動作は、数秒のダッシュ、瞬発力によってなされる。

 だから走りこみは、ダッシュとクールダウンが重要だ。

 もちろん怪我防止のために、アップになるランニングと、柔軟ストレッチは必要である。

 ただでさえ限られた戦力なのだから、ここで脱落者を出すわけにはいかない。




 そんな中で一番重要で、そして注意すべき選手は、やはり星である。

 彼は頑張りすぎる。

 夏の大会で減った体重が、まだ戻っていない。だからフィジカルを鍛えるメニューは、彼は別にしてある。

 星に大切なのは、全力を出さずに済む場面で、ちゃんと体力を温存するコントロールである。

 テクニック的には、それほど教えられることは多くない。もちろん細かいところでは色々とあるのだろうが、それよりもやはり、問題なのはメンタルだ。

 メンタルが強すぎるが故に、限界までプレイしてしまう。


 星の背中を追って、三里の野球部は走り出した。

 このプレッシャーは星を後押しするだろうが、そもそもそんなものがなくても星は、全力で走ってしまうのだ。


 チームを牽引するキャプテン。

 これを甲子園に連れて行くのが監督の役目だ。

 センバツを狙うというのは嘘ではないが、来年の夏も諦めるわけにはいかない。

 極端に言ってしまえば、星たちがいなくなっても、野球部は続いていくのだから。

 鍛えながら、育てながら、勝つ。

 難しいことをしているのだと、ちゃんと分かっている。




 そして国立の目から見ても、星が完全に回復したと思われる頃には、今後のスケジュールを決めていた。

 まずはスカウト。と言っても強豪が行うようなものではない。

 逸材ではなくてもいい。ただ、どこか突出した力があれば。

 たとえばショートのいい選手が入れば、打撃を無視して置くことも考えてもいい。

 打撃を無視してでも欲しいポジションとしては、あとはキャッチャーだろうか。


 シニア、高校、大学と、知り合いのところには片っ端から声をかけて、まだ中学レベルでは力を発揮できていない選手を見つける。

 強豪だっていい選手は取りたいが、同時に問題児は取りたくない。

 国立としても、星を中心としたチームに、単なる問題児は取りたくない。

 だが問題児にしても、その問題によっては素晴らしい素質を開花させたりする。

 白富東の鬼塚がその代表例だ。彼はシニア時代のチームメイトへの暴力、監督への不服従、他にも相手チームとの乱闘、審判への抗議など、おおよその思いつく限りの悪童であった。

 しかしタバコを吸っていたとか、恐喝などの明白な犯罪行為はなかった。

 今の彼はユーティリティプレイヤーとして、白富東の中心選手の一人となっている。


 指導者だって、いくら問題児ではあっても、素質に惚れこんでどうにかしたいと思っている場合はある。

 悪でありながらも惜しまれる。そんな選手ならほしいかもしれない。

 国立は部活が終わった後、夜中までかかってそういった選手を抱えた指導者を回った。


 またもう一つは、練習試合である。

 とにかく今の三里に必要なのは、経験だ。

 去年の夏に勝ちあがれたのは、シードの東雲との死闘から、強さを学んだからだ。

 

 単に強いチームと当たるのではなく、その強さをどう吸収するか、もしくはその強さをどう封じるか。

 本当に強いチームというのは、安定した力と爆発する力の二つを持っている。

 その爆発する力というのが、地味だが決定力のあるスクイズだったり、極端な守備陣形ということもあるだろう。

 あと試しておきたいのは、オーソドックスな投手に対する対処法だ。


 当たり前のことだが、いい投手とされる投手のそのスタイルは、ある程度のイメージが共通している。

 速球のスピード、抜群のコントロール、決め球となる変化球。

 ……その投手のことを考えると、白富東のことが頭に思い浮かんで、思わず溜め息をつきたくなる。

 白石は封じることが出来る。あるいは五打席連続敬遠などという、極端な方法もある。

 だが、佐藤を打つことは、おそらく無理だ。

 ピッチャーからは逃げられない。


 しかし彼にだって、弱点はある。

 魔球であるスルーに弱点があるように、人間なら誰もが持っている弱点。

 体力の限界だ。

 あるいは肉体の限界と言ってもいいかもしれない。

 上杉のような延長15回を投げて、次の日もけろりと先発で出てくるような、化物染みた人間ではないだろう。

 消耗戦で勝つ。たとえば打席に立ったら、わざと打たせて走らせる。あるいはバントを徹底する。


 まあそれはそれとして、普通にいいピッチャーのいるチームとの対戦を望んでいた国立は、割とあっさりとそれを果たした。

 栄泉高校。

 県内ではおおよそベスト8クラスの力があり、そして大原という140km台を投げるピッチャーがいる。

 あちらとしても謎の快進撃を続けた三里には興味を抱いていたようで、この対戦は実現した。




 まだ甲子園の本番が始まる八月の二日、三里高校のメンバー一同は、栄泉のグランドにやってきていた。

 三里の場合、グランドの全てが使える日は限られているので、試合にその日を使うわけにはいかない。

 栄泉は超強豪というわけではないが、私立であることを活用して部活にはそれなりに力を入れている。

 そもそも最初は野球部も目玉にするつもりだったらしいが、監督の招聘に失敗してスタートダッシュが遅れた。

 機会を失えば、チームが強くなるのは難しい。

 施設があっても指導者がいない。その最初のイメージが強く、なかなか常連強豪にはなれなかったわけだ。


 現在の三里は夏の実績こそ栄泉より上だが、実際の実力はどうか分からない。

 あと栄泉の顔は星と同学年の大原なので、彼を攻略しなければ甲子園には行けない可能性が高い。

「うわ、いいグランドですね」

 着替えた三里の選手たちが見渡す。しっかりと外野の奥まである広いグランドだ。

 観客席というほどではないが、ある程度の人数が観戦出来るような座席まで設置してある。

 そして実際に観客がいる。


 栄泉は準々決勝で敗退したが、相手は甲子園行きを決めた白富東であった。

 そして三里は春に白富東に惨敗した後、驚くべき短期間で強さを手に入れた、ベスト4の公立チームである。

 お互いに興味はあった。


 試合前、星を連れて栄泉の監督に挨拶に行けば、まだ30そこそこの年齢の男性である。

 栄泉のベスト8の進出を、大原一人の力と見るか、それともこの監督の手腕と見るか。

「本日は申し出を受けていただき、ありがとうございます」

「いえいえ、ベスト4進出の三里からの申し出とあれば、県内では引く手あまたでしょう。なにしろあの東雲を破っているわけですし」

 三里のベスト4がフロックと見なされていないのは、ベスト4常連であり県内の私立では二強と言われた東雲を破っているからだ。

 あれも延長戦までもつれこむ、苦しい試合だった。

 逆に早い内に当たれたことで、その後の試合を戦うまで回復出来たとも言える。

「色々な意味で、運が良かったのです」

「運だけですか?」

「あとは努力と……諦めない心でしょうか」

「なるほど」


 諦めるなとは、指導者や教育者がよく口にすることだ。

 しかしあの準決勝、国立は心の中で、星に向かって何度も言っていた。

 もう諦めてくれ、と。

 それ以上は潰れる。その瀬戸際で、何度星が踏みとどまったか。

「今日はお互い、学ぶべきものがあればいいですね」

「仰るとおりです」

 若い二人の監督は握手をかわす。




 長めの練習時間をもらって、グランドの感触に慣れる。

 外野に芝のあるグランドは、本当にやりやすい。

 もっども地面の状態が分かりにくいので、それは注意だが。

 これを維持するだけでもかなりの費用が必要になるだろう。


 センターの西は広い外野を駆け回りながら、栄泉の練習を思い出していた。

 全般的に、選手の身体能力が高かった。

 強豪のような特待生制度まではないが、栄泉はスポーツ推薦で入学してくる選手が多いので、やはり一般的な公立よりは強い。

(うちも少しでいいからやってくれないかな。まあ俺たちが卒業するまでには間に合わないだろうけど)

 高校までは野球をしたいと思っていた西だが、もっとずっと野球をしていたいと思ってしまった。

(星のせいだな)

 星は上手い。だが上手い以上に、伝わってくるのだ。

 楽しいのだと。


 星がいなければ、三里高校の野球部はこうはならなかった。

 国立監督により、徐々に強くはなっていったであろう。あるいは10年ぐらいの後に、甲子園に行ったかもしれない。

 それをビール片手に観戦。なんとも想像しやすい光景だ。

 けれど自分は、見る側ではなく、登場人物であることを選んでしまった。


 国立の指導力と技術はともかく、むしろ国立さえもが星の影響を受けているのではないか。

 そう考えることもあるし、実際にある程度はそれが見える。

 星がいなければ国立は、普通に弱小を強くしていくだけの指導者になったろう。

 どれだけ監督が優れていても、選手にその気がなければ試合には勝てない。

 行こう、甲子園へ。

 この試合はその試金石となる。




 先攻は三里高校。

 栄泉のエース大原の前に、先頭打者はファーストゴロ。

「さすがに速いけど、絶対に打てないほどじゃない。なんつーか、隙がある」

 二番の星は、その言葉を考えながら打席に入る。


 準決勝で対戦したトーチバのエースは、球速はMAX140kmぐらいであったそうだ。

 その数字だけでも星にとっては夢のような話だが、大原の速球はそれよりも速いと言われている。

 そのストレートが、初球に来た。

 低め。ストライク。


 なんとなく言いたいことが分かった。

 大原の球は球速も、そして球威もある。ちゃんと伸びてくる。

 だが、打てる。

(変化球くるかな)

 速球を武器にするピッチャーは緩急を使うために、絶対に遅い変化球を持っている。

 大原の場合はチェンジアップが多いと聞いている。


 二球目もストレート。やや外角寄りの低め。これもストライク。

 打ち気のないのを見透かされたのか。

(試してみる)

 三球目。高めのストレート。速い!

 セーフティのつもりのバットを引いた。ボール。

(高めの球はもっと速くなる)

 四球目の速いストレートで、内野ゴロに打ち取られた。




 三番の西も内野ゴロで一回の表は終了。

 だが収穫がなかったわけではない。

「打てそうだね」

 国立は言う。確かに速球派投手であるが、一つも三振がない。

「より速いストレートは高めに浮いてしまう。問題は低めだけど、まずは守ろう」


 今日の先発はやはり、一年の東橋。

 彼も一応本格派と言うべきか、正統派のピッチャーだ。

 左のスリークォーターで、球速はMAX120km強。一年生投手であれば充分と言えるスペック。

 あとはコントロールに球種だが、一応投げられる球はある。制球も悪くない。


 だが致命的な弱点がある。八分の力で投げることが出来ない。

 スタミナも豊富とは言えないので、完投が難しいのだ。

 リリーフエースの星だって、それほどスタミナ満点というわけではない。ただ彼は小器用に打たせて取ったり、遅い変化球でカウントを稼げる。

 投手としての可能性はともかく、現時点で完成度と信頼性が高いのは星の方だ。

 それと単純に、戦術として東橋は必要なのだ。

(投手適正をちゃんと考える必要があるな)

 投手の枚数を増やしたい。しかし適正があったとしても、やはり時間がない。

 秋を勝つのは無理なのか。だが夏に勝ち抜くよりはまだ、とも思える。


 運任せ。結局秋はそうなる。

 短期間に鍛えられる部分はそう多くはない。

(勝負はこの夏休みか)

 ほぼ一ヶ月。暑さの中でどこまで伸ばせるか。

 国立が考える間に、東橋も初回を無失点で抑え、一回の攻防が終わった。

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