第45話 全ての希望を破壊する。そしてそれらは復元できない。
七回の表、ノーアウトランナー一塁で、打席に入る武史。
「リーリーリー」
走る気満々に見えながら、実は全く走る気のない大介を一塁に、武史は言われていたことを思い出す。
吉村は絶対に、ストレートで勝負してくると。
白富東の打撃陣の中で、別格の大介を別にすると、一番はアレクである。
そして二番目は、代打起用の多い倉田を別とすると、武史と鬼塚が僅差である。
しかし勝負強いのは武史だ。特に相手が配球を考えたところで打つのが上手い。
配球とはコントロールであったり変化球であったりするので、おそらくデータ上は変化球打ちが目立つだろうし、実際に武史も変化球をミートする方が得意だ。
だからと言って速球が打てないわけではない。
幸いと言うべきか、白富東には球速160kmを投げてくるピッチングマシーン、エクスカリバーがある。
純粋に投手の生きた球とは比べられないが、単に速いだけなら、160kmは打てるのだ。
本物の投手の160kmと対戦した大介曰く、あまり参考にならないそうであるが。
とにかく武史の役割は決まっている。
ストレートを打つのだ。
盗塁を警戒してか、牽制をする吉村。サウスポーはこういう時に強い。
大介は吉村のフォームをじっくりと見るが、やはり盗塁の隙はない。先ほどはその隙のなさを逆手に取って二塁を奪ったわけだが、三塁に進もうとは思わなかった。
ここでの大介の役割は、吉村にストレートを投げさせること、そして少しでも注意を引くこと。
二度目の牽制にも、大介は頭からスライディングして戻った。
タイミング的には問題ないが、こちらの走る意思を相手に感じさせなければいけない。
初球、吉村のストレート。
アウトハイに外れた。しかしアルプスからは歓声が上がる。
スクリーンの球速表示に、150kmの文字。ここにきて今日最速である。
(つまり今まで、全力じゃなかったのに抑えられてたってわけか)
アレクの打席には149が出ていたので、それほど変わりはないと思うが。
(舐めやがって)
武史は直史に比べると、ずっと短気な人間である。
比べる方が間違っているかもしれないが、闘争心にあふれている。
ここでチェンジアップを使えたら、ゴロか空振りを取れる。
だが確実に盗塁を防ぐためにも、速球がほしい。
(少し内でもいいです。球威で打ち取りましょう)
(いいな!)
セットからのクイック。本来ならば、おおよそ球威は落ちる。
だが守備力強化も兼ねて、今の吉村はほぼ変わらない球速を維持できる。
(行け!)
全力のストレート。本日最速タイの、150km。
(見えた!)
武史のスイング。バットに当たる。
球威に押される。だが、押し込め!
ドライブのかかった打球は、、大きくレフトへ。
わずかずつファールスタンドに向かいながらも、ポールに当たった。
ツーランホームラン。
大きな大きな先取点であった。
後続を断ちながらも、吉村は大きく溜め息を吐いてベンチに戻った。
ベンチに座るが、とても心の動揺は隠せない。
「くそっ」
小さく呟いて、大切じゃないほうの右手で、ベンチを叩いた。
去年も最初はリードを奪われた。しかし一点だった。
今の佐藤相手に、二点差は大きすぎる。
「最終回は代打攻勢で行くぞ」
意気消沈とするベンチに、断固とした古賀監督の声が響く。
以前なら、そのままで打たせたかもしれない。しかし今日は違う。
直史はここまで、一球もスルーを投げていない。スルーを見てないからそのままの打者という理由にはならない。
このまま行けば、最終回は七番から。打力の劣った下位打線に、代打を出すのは当然だ。
七番から始まるとは言え、ここまでをパーフェクトに抑えられているわけではない。
運のいい当たりではあるが、二本のヒットは記録している。
だが一人目の走者は牽制で、二人目の走者は併殺で殺された。
特に一人目の時などは、去年のベンチメンバーは古賀も含めて「あーっ!」と叫んでしまったものだ。
全くそんな気配を見せないまま、最初の一球を打者に投げた後の牽制死。
直史は牽制が上手いと、勇名館は身をもって知っていたはずなのに。
打たれた後の処理。それが圧倒的に、直史は吉村より優れている。
たとえヒットを打たれても点につながらない技術を、彼は持っているのだ。
奪三振は魅力だが、打者と全く戦わずにワンナウトを取る牽制は、それ以上の武器だろう。
まだ二点差だ。
ネクストバッターサークルの目の前で切られながらも、自分に言い聞かせて吉村は八回のマウンドに向かう。
そう、まだ終わるには早い。早すぎる。
三年生の夏は、もっと長くあるべきなのだ。
九回の表、白富東はまたも機会を得る。
そうは言っても、ランナーはいない。ただ、ワンナウトで大介が打席に立っているだけだ。
ここは勝負だと、勇名館は決めている。
結局八回まで、直史は全く崩れることがなかった。
むしろ回を重ねるごとに、直球の伸びが上がっている気さえする。
八回までの投球数は76球。下手をすれば81球以下完封レベルである。これで球威が衰えるはずもない。
(正直、こいつを抑えたぐらいで動揺するチームとは思えないが)
吉村は慢心しない。佐藤直史はそれぐらいでは動揺しないだろう。
しかし何かきっかけがほしかった。結局去年、制球が定まらずに最後の勝負は出来なかった。
スライダーでボールから入り、次にはカットボール。
ファールの打球がレフトスタンドへ。これで並行カウント。
どうにかストライク先行でいきたい。スライダーを、内からゾーンへ。
微妙なコースを大介はまたファール。これで追い込んだ。
最後をどうするかは、事前に決めてあった。
まずは外にチェンジアップを外す。下手をすれば打ってきたかもしれないが、大介も空気を読んだらしい。
そして、最速のストレートを、ゾーンに。伸びてくるストレートは、ベルトの高さより上。
待っていた。
この最高のストレートを待っていた。
最高の左腕から、最高のボールを打つ機会を、待っていたのだ。
確実に捉えた打球はセンターへ。
弾道はライナー性。失速もしない。
ああ、夏が終わる。
最後の、最高の夏が終わっていくのを、吉村は見送った。
バックスクリーンのビジョン、151kmを表示した部分が破壊された。
ボールは戻ってこない。
致命的な三点目。
吉村の夏が終わっていく。
九回の裏、勇名館の代打攻勢。
直史は淡々と、それを打ち取っていった。
やることは何も変わらない。ツーストライクまでは凡打を狙い、それ以降は三振を狙う。
野手のミスがありえないという意味で、三振は理想的なアウトの取り方だ。
だからツーストライクからなら、三振を狙うのだ。
古賀監督は勘違いしていた。
直史はスルーを使えないのでもなく、また使わないようにこちらを舐めていたわけでもない。
単純に、魔球に頼らなくても抑えられるほど、成長していたのだ。
黒田ほどのバッターがいれば別だったかもしれないが、今の勇名館にあそこまで突出した才能はいない。
九回を投げ切って、88球。
被安打二、与四球0、奪三振12、失点0、抑えた打者は27人。
相手が悪かったと、言ってしまえば楽なのだろう。
それでも時代と場所を呪いたくなる古賀監督であった。
整列し、挨拶が終わる。
吉村は大介と握手をした。
「甲子園、行けよ」
「そりゃあんたを打ったんだから、行くに決まってるでしょ」
小さな巨人に、吉村は背を向けた。
ベンチに戻ってきた吉村に対して、古賀監督は握手を求めてきた。
「まあ……長い付き合いだったな」
ふへ、と笑っていた吉村の顔が歪む。
古賀の右手を両手で握った吉村は、深く頭を下げた。
「三年……いや、五年間、あざっした」
震える声で、吉村は言う。
ああそうか、と古賀監督も思い出す。
他の選手と違い、吉村との付き合いは、そこまで長いものだったのだ。
ストライクの入らない、小さなやんちゃ坊主が、初めての甲子園へ連れて行ってくれた。
ありがとうという言葉は、こちらこそが言うことだ。
その大きくなった背中を抱き、古賀監督も涙をあふれさせた。
「上に行っても、な。怪我だけは絶対に気をつけるんだぞ」
これだけの選手を育て、見守っていくことが、今後あるかどうか。
勇名館を、古賀を甲子園に連れて行ってくれたエースが、高校最後の試合を終えたのだ。
118球。被安打四、与四球一、奪三振15、失点が三。
普通なら負ける数字ではない。立派過ぎる数字だ。
それでも、この数字を上げても、敗北することはある。
「さあ帰ろう。ミーティングをしてから、今後の育成プランを考えないとな」
球児の夏は終わりを告げる。
そして次代へと受け継がれていくのだ。
勝利した白富東は、食事を終えると準決勝の第二試合の観戦に回る。
午後の一番暑い時間に、準決勝の第二試合は始まる。
着替えた白富東部員は、一人の例外もなくもう一つの準決勝を見守る。
トーチバと三里。三里は突然の準決勝進出だから、応援団も少ないかと思ってみれば、どうやら快進撃が伝わったのか、かなりの人数が来ている。
「うちの応援団はどうなんだろ?」
「そりゃ一部を除いては帰るんだろうけど」
既に試合も終わり、自軍の応援団も挨拶が終わった後は帰宅の途についている。
「あ」
そんな中で大介は、いつものトランペットおじさんが、楽器をしまいながらも次の試合の開始を待つのを見つけた。
う~むと考える。
「なあ、俺らが三里を応援するのって、なんつーか、上から目線かな?」
そんなことを大介が考えるのは珍しいので、一同の気を引いた。
「いや、普通に連絡先交換してるし、友達扱いでいいと思うけど?」
ジンはそう思う。合同練習もした仲であるし、トーチバを応援するよりはよほど自然だ。
「まあ、いくら精神力と集中力で勝ち進んできたとは言っても、トーチバよりは楽な相手だしな」
直史が相手をそう判断するのは珍しいが、彼にとっても単なる現実なのだろう。
ズタボロの三里。たとえ一日休養日があっても、トーチバよりも楽な相手になるだろう。
「んじゃあ、あっちの応援に混ざってくるわ」
大介が本当に向こうの応援に声をかける。
あちらは正式な応援団ではないらしく、楽器演奏の援護もないらしい。
トーチバはブラバンでも全国的に有名なので、応援のレベルでさえも勝負にならない。
見ればなんと、大介は応援おじさんに声をかけていた。
まさかと思っていたが、どうやら応援おじさんも、三里の応援に加わるらしい。
「え~、あれっていいのかね?」
「まあ顔見知りよりは親しい仲ではあるけど」
「応援おじさん、トランペット取り出したよ」
「あ、なんか二人で写メ撮ってる。まあ将来は自慢できるんだろうな」
「そういやそろそろナオとか大介って、サインの練習とかしなくていいのん?」
「なんでサインなんかするんだよ」
いいのかな? と白富東は思う。
「う~ん、おじさんは大介の応援メインに吹いてる人だから、あんまり体力消耗してないかもしれないけど……」
ブラバンと交流のある手塚は、応援の消耗度を軽視していない。
ある意味攻撃中は休めるメンバーよりも、遮蔽物のない炎天下では、消耗は激しいかもしれない。
「とりあえず、おじさんに水分持っていこうぜ」
スタンド観戦の多い水島は、ちゃんと日傘まで持ってきて、応援おじさんをさらに応援するために動いた。
「そういやさ、あのイリヤって子はどうなの? なんでも楽器できるって聞いたけど」
おそらくイリヤと双子は、他の応援とは別行動をしてるだろう。そう思ってジンが尋ねてくる。
「イリヤは無理っす。あいつ体力ないから、楽器吹けないんで、指揮してるんですよ。叩く系なら大丈夫みたいですけど」
武史が答える。イリヤが無理な本当の原因は、片方の肺を半分ほど失っているからだ。しかし体力がないのも本当のことだ。
「あいつら呼ぶか? チアならいけるだろ」
直史の提案は、けっこうしんどいものだ、双子の運動神経は化物レベルであるが、実は体力はそこまでではない。
まあ室内の空調環境ならば、一日八時間ぐらいは踊っていたことはあるそうだが。
「それはさすがにやりすぎかな」
武史としては、自分たちが応援するのはありだ。しかしそれ以上となると、さすがに違うと思う。
試合前のエール交換などはあっても、格下と明らかに分かる相手を応援するものではない。
「まあ、普通に応援するさ。一緒に練習した関係だしな」
手塚がまとめて、白富東はスタンドの上部、日陰のある位置から試合を見守ることにした。
三里高校の正式な監督となった国立は迷っていた。
試合前の練習で、既に息を切らしている者がいる。スタメンでまだ体力が残っていそうな者は西ぐらいか。
そして星の疲労がひどい。
せめてスタメンのセカンドを、誰かに替えるべきであったのだろう。しかしそんな少しの弱気も、選手たちには感じさせられない。
彼は指導者として、生徒の、選手の可能性に蓋をしたくはない。
だが可能性と、純然たる体力は別だ。
ただでさえ基礎体力に富み、みっちりと三年間鍛え上げられたトーチバと、三里の選手たちは違う。
自己流でそれなりに鍛えてきた星でさえ、この夏に何イニングもマウンドに立ち、限界まで消耗している。
数日前には、大会前に比べて5kgは体重が減ったと言っていたのを立ち聞きした。それも今日の朝は怖くて聞いていない。
白富東との練習試合以来、部員全体の意識が変わったのは分かっている。
自分が佐藤直史の攻略法を示したことで、本当に自分の可能性を信じることを、三里の選手たちは始めた。
本来であれば新チーム発足後、今の二年生たちをしっかりと鍛えて、来年の春から結果を出すつもりだった。
だが、星の頑張りを見てしまった。
控えの投手として懸命な彼を見て、ささやかなアドバイスをしてしまった。そしてあの試合――。
白富東との圧倒される試合で、それでも懸命な星の姿を見てしまった。
指導者として、教育者として、より適切な練習を教えてやる。それ自体は悪くはない。
しかしここまで勝ち進んで、もう部員のほとんどはぼろぼろだ。
仮に――この試合を奇跡的に勝ったとして、選手たちの体が無事で済むだろうか。
決勝戦にはコールドがない。白富東は容赦がない。もしも彼らが本気で、ちゃんと星の相手をしてくれるなら……。
挫折は人生には必要だろう。だが星ほどにひたむきな人間には、選んだ挫折を与えてやりたい。それは傲慢な考えだろうか。
「監督、それじゃあ」
後攻の三里ナインが、グランドに散っていく。
負けるために指揮をするなど、監督としての教育者としても失格だろう。
だから願う。
「うん、元気に、怪我をしないように」
ゆったりと笑う国立に、星は深く頷いた。
「はい!」
選手たちの無事を、国立は祈る。
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