第三楽章(14)

 遠い過去から現在にいたるまで、何百年にも渡って世界中の天文学者が調べ尽くしている惑星、それが金星だった。アメリカのマリナー二号やロシアのベネラ二号など、1960年代に惑星探査機が打ち上げられるようになってからは、さらに解明が進んだ。

 そんな金星にまつわる謎を自らの手で暴くということが、どれほど現実離れしているのか、徹は充分にわかっていた。

 徹を突き動かしているのは、ただひとつ、マヤへの思いだった。なぜだかわからないが、この謎の向こう側に彼女が待っているような気がしてならなかった。それは理屈ではなかった。これを諦めてしまったら、この先、もう二度と彼女とは会えないような予感がした。


「どこの地域の神話でも、金星神の誕生にまつわるエピソードは特別扱いされてる。劇的なまでに強調されてるんだ。もし、神話が実際の天体の動きを表したものだというのなら、この金星神の誕生神話にこそ答えが隠されてるはずだ」

 間宮の仮説の要点はそこだった。


 事務室の奥にある書庫には、解説員のレベルアップのために、天文データから神話や星占いに関するものまで、様々な資料や文献が揃えられてた。徹は空いている時間を使って、早速、検証をはじめることにした。事情を一切知らない他の解説員たちは、真剣な徹の表情に気付きながらも、無言で横を通り過ぎる。

 徹が取り出した『ギリシャ神話』によると、金星神アフロディーテの誕生神話はこう書かれている。


 ------父ウラヌスの横暴に耐えられなくなった息子クロノスは、母ガイアの指示に従って、ウラヌスの性器を鎌で切り落とした。エーゲ海に落ちたその性器から湧き出した泡から、愛と美の女神『アフロディーテ』が生まれた、と。

 神話に登場する神々の名は、惑星の名前も兼ね備えている。ウラヌスは天王星、クロノスは土星、ガイアは地球、アフロディーテは金星に相当する。徹は、まずこの話に出てくる神の名前を、それぞれの惑星にそっくりそのまま置き換えてみた。そして、この神話を読み替えてみると、


 ------天王星の横暴に耐えられなくなった土星は、地球の指示に従って、天王星の一部を切り落とした。すると、その切り落とされた部分から金星が生じた……ということになる。


(うーん、なんだかよくわからないなぁ……)徹は溜息をついた。意味の通じにくい箇所がいくつかあるのだ。


 『天王星の横暴』とは、天王星の公転軌道の乱れか何かだろうか。また、天王星の一部から金星が生じたというのは、土星の引力の影響を受けて、その一部が分裂し、その塊がやがて金星になったということだろうか。土星は天王星に較べてかなり大きい。太陽系では、木星に次ぐ二番目の大きさで、直径は天王星の倍以上もある。そこに他の惑星の会合も加わったとすると、引力の影響が二重三重と膨らんだ可能性も考えられるが……。だが、仮にそのような条件が揃ったとしても、分裂させるほどの破壊力となり得るのだろうか。それに分裂したなら、今も天王星にその痕跡が残っているはずだ。

 また『地球の指示』とは何だろうか。ギリシャ神話では、ガイアは『大地』を擬人化した女神で、神々も人間もすべて、このガイアから生まれたとされている。いわば原初の女神なのだ。ガイアを即、地球と解釈するのは性急かもしれない。


 徹は頭を抱えた。紀元前二千年に太陽系に異変が起こり、金星はその際に生まれた。そのことを疑ってはいない。だが、それを実際の神話に置き換えて説明しようとすると、不可解な箇所や矛盾点が多すぎるのだ。


「おう、頑張ってるな。どうだ、何かわかったか?」

 そこへ解説を終えたばかりの間宮が入ってきた。


 徹は、今行なった神話の検証について、間宮にざっと話して聞かせた。額を手を当てて考え込む徹とは裏腹に、間宮は意外にあっさりと言った。


「徹よ。かなりいい線まできてるとは思うが、そこにはひとつ壁があるぞ」


「壁、ですか……?」


「ああ、どう踏ん張っても越えることのできねえ壁だ。気が付かねえか?」


「さあ、何のことですか?」


「ウラヌス、つまり天王星が見つかったのはいつだ?」


「あっ!」徹は呻いた。慌てて、手元にあった天文年鑑をひっくり返す。


「1781年……」


「そう、つまりごく最近のことなんだ。いくらなんでも、肉眼で見えねえ星の動きを、当時の話の中に盛り込むのは無理なんじゃねえか?」

 どうしても越えられない壁……。それはどんなに想像を膨らましても、越えることのできない『時間』という名の壁だった。徹は神話と惑星の置き換えにばかり気がいっていて、基本的なことをすっかり見落としていた。


「一度は俺もお前と同じことを考えたんだよ」


「なんだ、そうだったんですか」


「お前なら、その壁を越える何かを見つけてくれるんじゃねえかと思って黙ってたんだが……」


「でも、神話は確かに天体の動きを表してるんですよね?」


「さあな……」


「さあなって、そもそも大さんが立てた仮説じゃないですか?」


「ああそうだ。だが、仮説はあくまでも仮説に過ぎねえ。今の段階じゃ、その先には進めねえんだよ」


 金星にまつわるデータが、これほどまでに揃っているというのに、徹はこの足踏み状態が歯がゆくて仕方なかった。


「きっと何かあるはずなんだ。時間を越えるための何かが……」


「そんなに焦るなって。たぶん、この答えは今はいくら考えても、考え付かないようなところにあるんだろうよ。だが、時がくれば、きっと答えは見つかるさ」


 間宮の言葉が、徹には諦めとも開き直りとも受け取れた。もちろん、『時間』という決定的な壁を越えるのだから、とても一筋縄ではいかないことはわかっている。だが、間宮が何と言おうと、突破口は必ずあるはずだ。どんな困難があろうとも、絶対に乗り越える。その先にいるマヤに到達するためなら、徹は『時間』さえも克服してやろうと心に決めた。

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