第61話 参戦余地
「自分のクラスの応援はしなくて構わないの?」
「……あの中に入って敵チームを応援したらどうなるか、わたしでもわかるもん」
正面から視界を占有するように近寄って話しかけた。花柳涼音に不意打ちで話しかけるのはタブー。本来なら背後を取って驚かせるような場面だが、生憎パニックに陥った彼女を救助できる人物は現状手が塞がっている。――まあ、近くにいるのはまちがいないし、いざその状況に差しかかれば全てを捨て置いて駆けつけるのは想像に難くないが。
――もし、もしも。もしも自分がどうしようもなくなったら同じように助けてくれるだろうか。みやびは一瞬だけ危険な思考に耽って、無駄な行為だと頭を横に振る。別に、求めているのは白馬に乗った王子様ではない。たとえ涼音にとってはそうであっても、みやびにとっては、ただ気の合う男の子というだけでいい。同じ立ち位置を欲したらどうなるかは目に見えている。そんな愚を犯すほど、自分は抜けていない。
「でも、香月くんの出番はまだでしょう?」
「もうすぐ出るよ。……蓮は、やるときはやるんだから」
「また無自覚マウンティング……」
その『わたしはなんでも知っていますよ」という態度がものすごく癇に障るし、実際になんの誇張も虚飾もないからタチが悪い。涼音は言葉の通りに蓮のことをなんでも知っている。――蓮が本当に知って欲しいこと以外なら、なんでも。
「年季の差」
「熟年離婚がこのところ一大ムーブメントのようだけど」
「流行りものには二人とも疎いから」
慣れた舌戦をこなしつつ、両者の視線は一点に注がれている。ハーフタイムが間もなく終わろうかというところで、蓮はサッカー部員の久留米となにやら話をしているようだった。
「試合が始まる前もあの人と揉めてた。たぶん、止められてるのに出ようとしたんだと思う」
「無茶をするとなったらどこまでも止まらないのね……」
話はまとまったようだ。竜也に脇を小突かれ、いくらか言葉を交わして笑って、二人でピッチへ向かっていく。ああいう関係も良いだろうなとほんの一瞬竜也を羨んだみやびだったが、既に埋まっているポジションに穴をあけるのがいかに困難かは既知。――それならば、新たな立ち位置を作ってしまう方が容易い。
「……そういえば、花柳さんは香月くんがサッカーしているところを見たことが?」
「……………………あるよ」
大きすぎる間に、表情に現れた翳りに、みやびは二人だけの秘密がそこにあることを悟った。いつもいつも蚊帳の外すぎていい加減に腹の一つも立ってこようというものだが、後から土俵に上がった身として、その分のディスアドバンテージは認めていかねばならない。
まあ、薄々勘づいてはいたことだ。蓮があれだけ必死になってなにかを成し遂げようとするからには、その裏に涼音の存在があるのは絶対。二人の間に抱えていた問題の解消が、彼が今回掲げた目標の中でもっとも優先度の高いものなのだろう。――秘密とか、謎とか、いくらなんでも彼はそれを隠し過ぎる。信頼していると言うのなら、もう少し話してくれもいいものを。
「まあ、言葉なしに成立する関係だと思えば悪くないかも」
「なにか言った?」
「いえ、なにも」
ちょうど笛が鳴る。――ボールを持った創建の前に立ちふさがるのは、蓮。
「……ここだけの話、香月くんに勝ちの見込みは?」
「負けないよ」
断言。……しかし、言い切るなら強く握りしめ過ぎてうっ血しそうな両こぶしをどうにかした方がいいと感じるみやびだった。
負けない。それは、涼音が蓮に抱えたある種の信仰心の賜物だろうか。彼女にとって彼は白馬の王子様で、救世主で、神様だろう。負けて欲しくないという願いが転じて、彼の勝ちを狂信している可能性は捨て切れない。確かに彼が活躍した旨は聞き及んでいるものの、まだ己の目で確認していないみやびとしてはなにもかもが半信半疑である。――一応、旧図書室で涼音に問いかけてはいるものの、答えが簡素過ぎてなんの参考にもなっていないのだ。
「蓮は、無敵だもん」
繰り返し、涼音が言った。発言の真偽は、もう間もなく明らかになる。さあ鬼が出るか蛇が出るか、そう身構えたみやびの先で、たった今ボールの奪い合いが始まった。
「…………わ」
技術的なことは門外漢だが、二人の争いがハイレベルなのは伝わってくる。フィジカルで劣る蓮は、それを機転と読みの冴えで補って、次々に相手の攻めを潰し続けている。ボールは向こうの所有なのに、まるで蓮が主導権を握っているかのようだ。
自分の実力という不確定要素をいやいやながら計画に組み込める程度に、彼は己の技術を信用していた。自己肯定能力が地の底まで落ちている香月蓮がそれを良しとしたからには、納得できるだけの材料が用意されていたのだろう。
二人はピッチの中央で左右に目まぐるしく動き回り、一進一退の攻防を演じている。……だがそこで不自然に、創建が動いた。蓮との直接対決を嫌うように、半ば強引にシュートの姿勢に移ったのだ。
「わざと打たせた……?」
シュートは大きく外れ、ボールは明後日の方向へ飛んでいく。無理筋の攻めなのは離れて見ていてもわかった。無論、当事者なら勘づいているはずだ。なのに蓮はそれを防ぐ素振りすら見せず――
「なにか話してる?」
試合が止まっている間に、蓮と創建はなにやら会話を交わしていた。もしかすると、今しがたのミスショットも言葉で動揺を誘った末の結果なのかもしれない。
距離があるから内容は推察不可。しかも蓮は背中を向けて立っているので、表情すらわからない。代わりに見える創建は表情に乏しく、状況考察は困難を極めた。
「…………」
どんな話をしていると思うか隣の少女に問いかけようとしたが、涼音は下唇をぎゅっと噛んで、まるでなにかに耐えているようだ。とても話せる雰囲気ではなく、みやびは視線を前へ戻した。
ゴールキックから始まり、パスを介してボールは再び蓮の元に渡る。既にクラス対抗戦というよりは、個人の争いに焦点が当たってしまっている気もする。
さて、彼はここからどう出るかと注視していると、どうやら単身での突破を選択したようだ。糸を引くような緻密なコントロールでボールを支配して、ゆっくり確実に、前線が押し上げられていく。何度も何度もボールを奪おうと相手の足が伸びてくるが、蓮はそのたび器用にかわすなりいなすなりして、触れることさえ許さない。その様子は、さながら接着剤かなにかでボールを己に貼り付けているかのようだった。
相手チームのディフェンス陣には、明らかな迷いが浮かんでいる。本来なら加勢すべき局面なのだろうが、どう割って入ってもノイズになる。それが原因で失点したら戦犯化することは避けられず、晒し首になるのを恐れて二の足を踏んでいるようだ。そうこうしているうちにも蓮は着実にゴールへ近づいている。驚くほど冷静に状況を見据えつつ、途中途中で周囲の様子を把握する余裕さえ見せながら。
ここまで観戦して、みやびの胸中にはとある当たり前の疑問が浮かび上がった。みやびどころか観衆の誰もが考えてしまいかねない謎で、それと言うのも――
「……わたしなんだ」
疑問を言語化しようとしている最中だった。ずっと黙りこくって、瞬きすらせず蓮の動きを目で追っていた涼音が、諦めたような笑顔を浮かべながら、淡々と語り始めた。
「……わたしのために、捨ててくれたんだ」
指を差す。蓮はボールを基点に大きく体を切り返して、しつこいスティールから一歩だけ抜け出したところだった。
「……わたしが、捨てさせたんだ」
――どうして香月くんはサッカーを続けなかったの? その問いに対する答えが出た。涼音は悲喜こもごもの声音で瞳にうっすら涙を溜め、まるで罪に耐えかねるかのように告白をした。……いいや、これは告解とでも言った方が良い。そうやって吐き出さないことには、彼女の脆い心が潰れてしまいかねないのだろう。
この二人の過去にどんな事情があったかを、みやびは知らない。涼音の許可なしに語ることはできないと、蓮に断りを入れられている。そこが分岐点であり、今なお二人を縛る強固な楔になっているのは明らかで――だからそれは、いずれ知らねばならないと思った。今日でも明日でも、できることなら近いうちに。
ただ、そういった事情とは別に、「捨ててくれた」と言った瞬間、涼音の顔に影のある笑みが浮かんだのをみやびは見逃していない。強い依存心の表れで、それでいて歪んだ自己肯定なのだろう。蓮がなにかを――それも特別大切なものを切り捨ててまで自分を選んでくれたという事実が、涼音の心を支えている。蓮がどこまで考えてその行動に踏み切ったかは定かではないが、いくらなんでもこれは想定外の結果だろう。あるいは、それくらいしないとどうにもならない程度に、過去の涼音が苦境に晒されていたということなのだろうか。
どちらにせよ、とみやびは思う。――あなたが香月くんに抱いている感情は、恋慕や愛情なんてものではなく、信仰や崇拝ではないのかと。深いところで触れ合うあまりに、いつしか混同してしまったのではないかと。だとしたら、それはもう好き嫌いという枠に留まるような話じゃない。自分と同じ土俵どころか、同じ次元でものごとを見てすらいない。
歪んでいる。ねじれている。香月蓮と花柳涼音のつながりは、当初想定していたよりも数段いびつなものだ。――しかしながら、これはみやびにとって、望外の情報で。
(立ち位置はわざわざ自分で作らなくても、最初から空きがあった……か)
自分の性格の悪さが出ているなと、首をふるふる横に振る。ただ、それは厳然たる事実で。涼音が蓮の中でどんな位置づけにありたいかを考えたとき、おそらくそれは自分とバッティングしない。涼音の信仰心と、みやびの恋慕は両立し得る。……そうなると、あとの問題は蓮の心持ちになってくるのだが。
(香月くんが花柳さんに向けている感情も、好き嫌いなんて簡単な言葉では収まらないわよね)
二人の関係性が複雑すぎるがゆえ、そこかしこに穴がある。まだまだ自分が関与する余地は残っているなと冷静に分析しつつも、みやびは事態が蓮の望まぬ方向へと進んでいくのをひしひし感じていた。
(香月くんのことだから、花柳さんに自分の健在っぷりをアピールして罪悪感の払拭を図っていたのでしょうけど……こればかりは逆効果ね)
おそらく、蓮の目論見の大半は達成されている。氏家繭香はなにかしら考えを改めた様子を見せたし、衝突してきた新浜創建には、彼が望む至高の対決を届けている。――だがしかし、一番肝心だったであろう花柳涼音へのケアが、まるっきり逆方向へ進んでいた。傷を癒すつもりだったのだろうが、明らかに大きく抉り返している。
「ねえ、花柳さん」
「…………なに?」
彼の真意は理解している。皮肉なことに、十年近い付き合いがある涼音ではなく、まだ出会って数ヵ月のみやびの方がしっかりと。
ここで彼らのすれ違いを訂正してあげれば、蓮の目標成就に大きく貢献できるだろう。恩を売れるし、貸しを作れる。それは非常に甘美で、悪くない。――ただ。
「香月くん、かっこいいわね」
「……当たり前でしょ」
そんな簡単に敵に塩を送るほど、みやびはできた人間ではなくて。蓮はすっかり聡い人格者のように思っているらしいが、実のところは年相応に打算を働かせるだけの、ただの少女だ。
蓮が繰り出したパスを、宙で受けた竜也が華麗にゴールへ叩き込む。――周囲が衝撃に沸くなか、みやびと涼音だけが、声も上げずに淡々と遠くの彼らを見つめていた。
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