第51話 介錯違い
『香月、今日ヒマ?』
「要件からお先に。それ次第で暇かどうか決まるから」
『ドライだなー。いやさ、ちょっとリハビリ付き合ってもらおうと思って』
「僕をトレーナーかなにかと勘違いしてないか?」
『頼む、この通りだから』
「電話越しじゃ君の姿は確認できないっての……」
夏休みに入ってすぐのことだった。先日、ちょっとしたきっかけがあって話すようになった同じクラスの及川から、突然電話がかかってきたのだ。
さっさと宿題を片して後顧の憂いなく長期休暇を満喫したい僕とすると、早期の誘惑は毒でしかない。だから、丁重にお断り申し上げようとして――
『……こうやって足掻いてるところ、他のみんなにはあんまり見せたくないんだ』
「僕ならいいのかよ……」
『まあ、香月なら大丈夫かなって』
「酷い選出理由だなまったく。……で、どこに集まればいい?」
『……え、今の感じで了承してもらえるの?』
「切羽詰まってるのはなんとなく察してた。……それに」
『それに?』
「後は僕の事情。話すようなことでもない」
弱いところや、泥臭い姿を特定の誰かから隠したいという気持ちは痛いほど理解できた。強い自分という偶像を作って、守りたいなにかがある。それが嘘だろうが虚像だろうが、頼りにしてくれる存在がいる以上、意地になって虚勢を張り続ける必要がある。
人間には二種類ある。同類に甘くするタイプと、同族嫌悪するタイプ。僕はどう考えても前者で、だから及川の要求に従うのもやぶさかではなかった。
「お、来た来た」
指定の公園には既に及川が待機していた。――その膝に、痛々しいまでのテーピングとサポーターを施して。
「……もうちょっと養生しろよ。脚の怪我って時点でただでさえ危ういのに、君はよりにもよって膝ぶっ壊してるんだぞ」
もっとも、つい先日まで松葉杖生活を強いられていたことまで加味すれば、支えなしで歩けるようになっただけで飛躍的進歩には違いないのだろうが。
症状を詳しく聞いたわけではない。ただ、スポーツに関わっていれば一度は耳にするオスグッド病や骨のすり減りでないことくらいは素人目にも明らかで。五月の練習試合で痛めたという膝が一体どれほどの状態なのか、聞くことすら憚られた。
だと言うのに、当の及川はけろりとした表情で、持参したのだろうサッカーボールを両手でもてあそびながら言うのだ。
「じゃあ、パス練から付き合ってもらおうかな」
「待て待て待て。リハビリと言うからには完治かそれに近い状態になってないと、変な癖がついて余計に悪化するんじゃないのか?」
「いや、医者にはぼちぼち動かして良い頃合いだって言われてる」
「じゃあ、なんでそこまで厳重に――」
「こうしておかないと、部活を休む口実をもらえないからさ」
「……サッカー部を休んでまですることが腕の錆びかけた経験者を連れてのサッカーって、君、滅茶苦茶言ってる自覚はあるか?」
すっかり治ったうえで僕を呼んだものとばかり思っていたから、出鼻をくじかれた感じだ。彼の言に沿えば見た目ほど傷は深くないのだろうが、どうしても視覚的に圧倒されてしまって、やりづらい。
そんな僕を無視して、及川はボールを足の側面で器用にコントロールし、こちらへころころとパスを出してくる。習慣というのは体に染みついているものらしくて、僕はそのボールにバックスピンをかける意識で足元に留め、間髪入れずに蹴り返す。
「そういえばさ、ここまで聞かずじまいだったけど、香月はどうしてサッカー辞めたの?」
「辞めたって程じゃない。現に、今もこうしてボールを蹴ってる」
「クラブを抜けてその後も関わってないんだから、一般的には辞めたって表現が一番適切だと思うよ」
「……別に、サッカーに対しての熱意とか姿勢が揺らいだわけじゃないよ。むしろ、そこはずっと一貫してる……っと!」
及川が気持ち強く蹴りこんで、浮かび上がったボールを胸でトラップ。現役バリバリだった頃から幾分か背が伸びたせいで感覚にズレがあるが、案外まだまだやれそうだ。腿で何度か弾ませつつ勢いを殺し、接地させないまま及川へボールを戻した。
「姿勢って?」
「あくまで楽しむこと。まあ、技術を身に着けるのに多少の努力が必要なのはわかるけど、無理してまで上へ行こうとは思ってなかった。エンジョイ勢くらいの立ち位置でいるつもりだったんだ」
「それで、どうして辞めることになるわけ?」
「チームが勝ちの味を知り過ぎた。当初は僕と同じようなスタンスだった指導者もチームメイトも、徐々に勝利至上主義に思考を侵されていってな」
「ああ、めっちゃ強かったもんね、当時の桜井FC」
懐かしい名前だ。僕が数年在籍して、その後ずっと距離を置いてきたチーム。確かに居心地が良かったはずで、しかしいつの間にか周囲との著しい温度差を感じるようになってしまったチーム。
「そう、強かった。強かった代わりに、上位の大会にお呼ばれするようになったせいで週二だった練習は週三に増えて、当たり前のように土日が潰れて、ミスすると目を血走らせた保護者から怒号が飛ぶようにもなった」
「あー……、わかるかも」
どこかで歯車がおかしくなっていくのを、たぶん僕だけが感じていた。勝利に酔いしれてしまった連中は敗北への耐性をすっかり失い、やれどこが悪いどこがいけないと責め合う空気まで生まれ、笑顔の絶えなかった練習は、いつの間にか相互監視の監獄に成り下がった。
ぶっちゃけ、最悪だった。……しかし僕はまだまだ子どもで、そこで用いた解法があまりに安直かつ、取り返しのつかないものだったのだ。
「しかもこれにはオチがあってさ。……意図していなかったとは言え、その空気を先導したのは誰あろう僕自身だったんだよ」
話している間は自分がボールを保持するという不文律が、短い時間の中で生まれていた。頭や踵、腹まで使ってボールを遊ばせながら、僕は続ける。
「少なくとも、勝っている間はみんな笑って問題が表面化しなかった。……だから、必死で勝ちを拾いに行った」
「覚えてるよ、俺、何度か対戦したもん」
「でも、僕は対戦相手の顔なんかまるで記憶にない。そんな余裕なんかない状態だったんだよ、要は」
けれど、一人の頑張り程度でどうにかなるほど、チームスポーツは甘くない。どれだけ上手かろうと三人がかりでマークされたら攻めあぐねるし、チームを通して見ればどうしても綻びは生まれてくる。プロでさえ実力差のある世界で、スカウトなんかさっぱりしない一介の寄せ集め集団が駆け上がれる階段は、頂上まで続いていなかった。途中まで勝ち進み、しかしどこかで敗北を喫する。保護者の手前そうするしかなかったのか、あるいはその思考に既に染め上げられてしまったのか、優しかったコーチたちは名指しで選手批判をするようになり始め、試合後くたくたのまま、罰走や筋トレを強いられた。そこにもはや、かつてのチームの面影などなかった。
「今の君の前では絶対に言っちゃいけないんだろうけど、当時は怪我したくてしたくてたまらなかったよ。選手生命にかかわる大怪我さえすれば言い訳なしで抜け出せるって本気で思ってた」
「それは重傷だ」
「うん。重傷も重傷。……だから、せめてサッカーという競技そのものが嫌いになる前に、足を洗うことにしたんだ」
そんな破滅的思考でスポーツをしても、なに一つおもしろくない。……僕が去って、それ以降のチーム状態がどうなるか、考えなかったわけではないけれど。
「そっか。そっかー……。事情は人それぞれだね」
「今もピンピンしてる奴がさっさと諦めたことへの憤りは?」
「別に、理由があるならなにも言えないよ。香月は名前を覚えちゃうくらいには上手くて、なのに突然いなくなるもんだから、転校でもしたものだとばかり思ってた。……でも、それは理由として十分過ぎるな」
及川は、話しながら足元のボールを拾い上げた。どうやらパス練習は終わりのようだ。そのまま小さく手招きされ、素直に従ってとことこ近寄る。「じゃ、次はドリブルね」言うや否や手からボールを離した及川は僕の横を抜き去ろうとして――しかし、反射的に出てしまった僕の足が、彼からボールの操作権を奪い取った。
「うわ、不意打ちだったのに」
「さすがに病み上がりには負けないって」
「よし、なら今度は俺が止める番――」
それからしばらく……いいや、しばらくと言うにはいささか長すぎる時間、僕らは一心不乱にボールを蹴り合った。及川が本調子でないのは明らかでトータルでは僕が圧倒してしまったが、この調子なら復帰するのも間近だと、そう胸を撫でおろしかけて。
「……っと、いてて……」
及川が突然、患部を押さえてうずくまった。「大丈夫、大丈夫」と口では訴えるものの、表情と血色が尋常ではない。僕は慌てて近くのベンチまで彼を引きずり、休ませた。
「治ってるんじゃないのかよ……」
「……治ってはいるよ。これよりよくならない以上、治ったって言うしかないしね」
「……中一時点で一生の付き合いになる後遺症持ちとか、全然笑えないっての」
無理した作り笑いを否定し、頭を掻いた。そりゃあ、怪我というのは引きずるものだ、完全に元通りになるかと言われたらそうじゃない。メスを入れたって、どうにもならないことはある。だとするのなら、これは、正直……。
「……なあ、及川」
「あー、ストップストップ。……香月がなにを言おうとしてるかは、わかってるから」
「……わかってるなら、さっさと決断すべきだろ。君は――」
「だから、この夏が正念場なんだ。……もっとも、一年でエース待遇の俺が、何年か前に現役から退いた相手に後れを取るようだったら、考えを改めるかもしれないけどね」
「…………」
あぁ。……あぁ。
そこで、ようやく気付いた。彼がリハビリと銘打って僕を引っ張り出したのは、その実リハビリなんかが目的じゃなくて。――ただ、引導を渡す相手に、一定の格を求めただけなんだなって。中途半端に超えてしまいそうな壁を設定したら決意が揺らぐから、そんな迷いすら生まれないくらいに、徹底的に自分が終わっていることを、理解したいだけなんだなって。
彼が欲しているのは背中を押してくれる友人ではなく、容赦なく首を落としてくれる介錯人だった。既に小刀は彼の臓腑を切り裂いていて、後はもう、誰かにバトンを渡す状態だったのだ。
そして、それに選ばれたことを誉に思える感受性は、幸か不幸か、僕の中にきちんと存在した。
ここに、バトンは渡された。
それから、約一ヵ月。
及川は――竜也は。憂いを一切孕まない笑顔のまま、サッカー部に退部届を提出した。
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