第50話 助走をつけて

「朝はやっ! これで何日連続?」

「まあまあ。どうしてもやりたいことがあったら、僕だって早起きするんだよ」


 ちょうど制服に着替え終えたタイミングで、すずの声が飛んできた。夜型の僕は基本的に朝寝坊がデフォルトなのだが、ここ数日誰に命じられるでもなく目覚まし時計のけたたましいアラームで起床し、身の回りのことを片付けていた。朝シャンをする余裕すらあった。


「自由時間の拡張はそのまま人生の充実に直結するからな。……ってわけで、お先」

「あっ……」


 ふらふらと手を迷わせるすずから意図的に視線を切って、いつもより三十分は早い時間に家を出る。その道のりだってストライドを広く取った早足で、焦るように急くように、学校へと向かう。

 さすがに始業まで時間があり過ぎて、校内は全体的に鎮まりかえっている。早出で朝練に励む運動部の声だけがちらほらと聞こえてくるが、学校自体は静寂そのものだ。

 もしかすると一番乗りかもしれない。なんて思いながら教室に向かうと、たった一人の先客が僕のちょっとした高揚を打ち消した。


「香月くん、ここのところずっと早くないかしら?」

「こっちのセリフだそれは。君、どんだけ規則正しい生活送ってるんだよ」


 早々に教室へやって来て、早々に参考書を開いて自学に励んでいた芦屋に感心半分呆れ半分で近付いて、彼女の前の座席を拝借する。何時に学校へたどり着いているのかは怖くて聞けなかった。


「なにか企みごとでも?」

「まあね。生活時間帯を強引にずらして、肉体のピークを日中に持ってこようと悪戦苦闘中」

「……香月くんは夜の住人なのに?」

「そう聞くとカッコ良くていいな……。でも、今はちょっと色々あって。どうしても無茶しなきゃならない理由ができてさ」

「それと早起きが関係あるの?」

「大いに。……まあ、どこに恩義が転がっているかはわからないなってお話」

「ますます話が見えなくなってきたわね」

「まあ、しばらくは見えないままでいて欲しい」


 僕のあずかり知らない場所で、かなり大きな借りができていた。それを返すにはどうしたらいいか考えて、結局はこれしかないなと落ち着いたのだ。早起きで返せる借りってなんだよと自分でも思うが、そのあたりはゆくゆく明らかになっていくと未来の自分を信じて。


「それでさ、一つ、芦屋に頼まれごとをしてもらいたいんだけど」

「高くつくわよ?」

「構わない。いや、構わなくはないが、この際仕方ない。この役目は僕じゃもう絶対に無理どころか逆効果まであるから」

「……そんな難題なの?」

「人によるな。少なくとも、僕が頼れる人間の中だと、君以外に遂行できるビジョンが見えない。だからどうしても、力を貸してもらいたい」

「……香月くん、人を乗せるの上手って言われない?」

「効果が見込めるならどこまででもおだてるさ。頭も下げるし靴だって舐める。プライドの捨てどころは弁えてる」

「胸中全て公開しちゃうのは少し瑕かもしれないけど……」


 確かに、そのシチュエーションになっても靴は舐めないかもしれない。そこまで堕ちたら人としておしまいな気がする。……まあ、ものはたとえだ。それくらいする気概がこちらにあるというだけ。


「それで、お願いって?」

「人を呼んで欲しい。特定の時間、特定の場所に」

「何人?」

「一人」

「……それで、詳細は?」

「割と流動的な部分も多いから今の時点で断言はしにくい。もしかしたら君の出番はないかもしれないしな。……でも、確定情報は伝えておく。人は――」


 言うと、芦屋は笑った。面白おかしいものを見るような目をして、「ええ、わかった」と頷いてくれた。


「そのわかった、どこまでわかってるやつ?」

「ほとんど全て。……脚本はもうできあがっているの?」

「まさか。ぶっつけ本番のアドリブ劇だよ。諸々込みで成功率は二割弱。……正直今から心臓と胃が悲鳴を上げてる」


 芦屋の察しの良さに慄きつつ、現段階で話せる情報と僕が思い描いた筋書きとをつらつら並べ立て、協力者のできあがり。この上なく心強い味方だが、彼女を意のままに利用しているようでもあって、残っているかどうかもわからない良心がちくりと痛んだ。


「それで、香月くんはなにが目的で身を削ってまでそんな面倒なことを?」

「……強いて言うなら、自分のため」

「……ふぅん」


 ここで、彼女の嫌いなものを思い出した。芦屋みやびは、他者から嘘をつかれるのをなにより嫌う、潔白な精神の持ち主ではなかったか。

 なら、あまりに白々しい今の発言は、どう捉えられたのだろう。


「香月くん、優しい嘘って信じる?」

「ないよそんなもん。嘘なんて、利己主義の延長線上にしか存在しない」

「……嘘を偶数個重ねたら、真実が浮かびあがってしまうと思わない?」

「同じ土台の上で嘘をつき続けられる芯の通った奴は、そもそもそれに頼れず生きていけるっての」

「じゃあ、そうなっても頼るからには、相応の理由があるってことよね」

「芦屋、一個忠告なんだけど、行間ばかり読み続けると、ロクでもない場所にしかたどり着かないぞ」

「経験談?」

「経験談。先達からの言葉と思って、心の隅に留めといてくれ」


 頭の良い人間と話していると、どうしてもトークテーマが抽象的な方向に傾いてしまう。これはいいことを話した気分だけ得られて、その実中身は空っぽというトラップなのだが、今の会話くらいならさすがに理解が及んだ。

 これ以上、彼女の勉強を妨げるのも忍びない。そう思って、席から離れる。「もう少しいればいいのに」と惜しまれたが、それがリップサービスかどうかは判別できなかった。


「頑張ってね」

「まあ、無理しない程度に」


 なんて、既にかなりの無理を体に強いている。早起きも運動も気配りも根回しも、本来率先してやろうと思うことではない。……ただ、楽な方へ楽な方へ進んでいく自分を許せないからそうしたというだけで、本来の僕はもっと怠慢で愚鈍な人間に他ならないのだ。

 ただ、やるからには徹底的に。中途半端な終わりだけは不要。徐々に賑わいと活気を纏い始めた校内で一人気を吐き、ついでにあくびを垂れ流す。……怠慢でも愚鈍でも、負けず嫌いなことは変わらないから。

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