第43話 頼みます

電話の向こうで、せき払いが聞こえた。

しばしの沈黙があって、

「やあ、春平君」

というかすれた声が聞こえてきた。

「あ、春平です。その、ご無沙汰してます」

俺の声も少し掠れていた。

お互い緊張しているのだろうか。

でも、あのおじさんが?

「あの……」

「うん」

何か待ち構えているような気配がした。

前置きなど無しで、単刀直入に話すことにする。

「葉菜と、いえ、葉菜さんと、結婚を見据えてお付き合いいたしたく……」

葉菜がテレテレして何故か炬燵布団こたつぶとんを頭からかぶる。

有希は唇をすぼめて、「ひゅーひゅー」と鳴らす振りをする。

「本当に、葉菜でいいのかい?」

「え?」

意外な言葉が返ってきた。

俺は、本当に俺なんかでいいのですか、と訊くつもりだったのに、逆のことを訊かれてしまう。

「あの子のあの指は、遺伝性のものじゃないってお医者さんは言ってたけど、不安は無いかい?」

……そのことを考えなかったわけじゃない。

恐らく将来、俺と葉菜は子供を作るだろう。

生まれてきた子供の指が五本無かったとして、ということを繰り返し想像した。

何度想像しても、答は同じだった。

「おじさん」

「うん」

「俺みたいな奴は、平凡で、どこにでもいると思うんです」

「どういうことだ?」

「もし俺がいなかったとしても、葉菜には葉菜を好きになってくれる人が絶対に現れたでしょうし、それは子供についても同じだと思うんです」

いじめられることはあるかも知れない。

嫌な奴は世の中に幾らでもいる。

でも──

「俺が葉菜を好きになるのは、ありふれた普通の感情で、特別でも何でもないことなんです」

「うん。言ってることは判るよ」

「だから、もしそんな子が生まれたら可哀そうとか、不安に思うのは違う気がして……」

「うーん、少し理想的すぎる気もするけど、そうかも知れない。少なくとも俺の場合は、目の前が真っ暗になった状態から普通になって、そして今や普通より幸せだ」

「だからおじさん達が葉菜を素敵な人に育て上げたように、俺が子供を素敵な人間に育つように努力すれば、周りに愛される子になってくれるかなぁ、なんて……。すみません、甘っちょろいこと言ってるかも知れません」

「いやぁ、葉菜は春平君には愛されてるけど、周りのみんなにはそんなに愛されてないんじゃないかなぁ。我儘わがままだし、他人を見下すことは多いし」

……よくご存じで。

「でもまあ、うん、そうなんだろうなぁ。結局は、自分自身も自分の子供も、愛されるようにみがいていくしか無いんだよなぁ」

いったい何の話をしているのだ、と言いたげな顔をして、葉菜が俺を不安げに見ていた。

有希がそんな葉菜の手を握っている。

俺は葉菜に笑いかけた。

「やっぱり葉菜は、俺以外からも愛されてますよ」

「え?」

「ちゃんと手を繋いでくれる人が他にもいて……」

「葉菜に春平君以外の男が!?」

「違います!」

「いや、でも?」

「とにかく、俺は葉菜と……葉菜さんと一緒に生きていきます」

葉菜と有希がハイタッチをした。

パーンと小気味良い音が響く。

「もう葉菜さんを離さん! てことかい?」

「……」

アンタは有希と同じレベルかい! とツッコみたくなるのを必死でこらえる。

「春平君」

「はい」

「返事は?」

つまらんダジャレに返事を要求されてしまった。

「えっと、まあ、そういうことです」

沈黙が訪れる。

もしかしてさっきのはダジャレではなく、真面目な質問だったのだろうか。

だとしたら俺の返事は、少し誠意に欠けていたのではないか?

「昔、葉菜が春平君のおちんちんを寄越せって言ったことがあったよねぇ」

「ぶっ!」

真面目どころか、おじさんは俺をからかってるだけなのか!?

「何年もかかったが、これで春平君のおちんちんは葉菜の物になったわけだ」

「いや、俺の物です」

思わず反論する。

再び炬燵布団に顔を半分だけ隠した葉菜は、またテレテレしながら目尻を下げる。

たぶん俺の言葉を、葉菜は俺の物です、という意味に解釈したのだろう。

「でも、他の人に使うことは無いんだろ?」

「それは……確かにそうですが……」

「じゃあ葉菜の物だ」

いや、まあ、ちょん切られるわけじゃ無いならそれでいいのだが。

「あのときに俺は、春ちゃんに葉菜を任せようって思ったんだよなぁ」

昔を懐かしむような口調になった。

呼び方も、春平君から春ちゃんに変わる。

確か高校に入るまでは、おばさんと同じで俺のことを春ちゃんと呼んでいたはずだ。

「あれは、四度目だったっけ?」

「……たぶんそうです」

小学校二年、だったろうか。

「葉菜が手術はもう嫌だって泣きじゃくったとき、春ちゃんが俺に、僕の指を葉菜にあげられないかお医者さんに聞いてって言ってきて」

それがどんなに困難なことか、当時はまだ認識してなかった。

他人どころか、親兄弟からですら移植はほぼ不可能だ。

「両手から一本ずつあげたら、二人とも四本ずつになっておそろいだよって」

そんなことは出来っこないって、葉菜は既に知っていたのだろう。

だから、当時いつもお姉さん風を吹かせていた葉菜は、不意に泣き止むと不敵な笑みを浮かべて言ったのだ。

──じゃあ春平のおちんちんをちょうだい。

それは無知な俺をあざけって言ったようにも見えたし、あるいは冗談を言って泣きじゃくっていた自分を吹き飛ばしたようにも見えた。

あのとき俺は恐怖を感じて、思わず股間を手で隠した。

それがおかしかったのか、葉菜がいつもみたいに笑って、いつもみたいに「春平のバーカ」と言った。

そして何故か俺は、いつもとは違って「バーカ」と言われたのが嬉しかった。

嬉しかったんだ。

「あの子に直接尋ねたわけじゃないけどさ、春ちゃんが言ったことは葉菜の中に大切に仕舞われてるんだ。いや、言葉だけじゃないかな」

「?」

「葉菜が中学生のときだったかなぁ。親戚連中が集まったときに誰かが、三本なのに偉いわねぇ、って言ったんだ。そしたらアイツは、四本よって答えたんだ」

「……」

「聞いてたみんなが怪訝けげんな顔をするとアイツは言ったんだ。少し離れたところに一本ずつあるの。それは近付いたり離れたりくっついたりしながら、私のために動いてくれるの。いつでも私の思い通りになるわけじゃないけど、いつだって私に力を与えてくれるの……ってね」

何と答えていいのか判らない。

俺の言葉は、子供の他愛ない思い付きに過ぎない。

葉菜を助ける魔法の呪文とは違う。

「だから言葉だけじゃなくて、春ちゃんのその指も、アイツは大切に持ってるんだよ」

自分の、何の変哲も無い指を見る。

この指が、手が、俺の全てが──

「春ちゃんの言葉も指も、そしてちんちんも、いや、全部が、葉菜の大切な物であり、葉菜の全てが、春ちゃんのものだ」

それぞれが、それぞれのために──

「春ちゃん」

おじさんの声は、優しさに満ちていた。

「さっき春ちゃんは、自分のことを平凡で、どこにでもいるって言ったけど、俺は春ちゃんがいたから葉菜を厳しくしつけることが出来た」

子供の頃の、おじさんの厳しさはよく知っている。

葉菜が泣こうが容赦しなかった。

「春ちゃんがどこまでも葉菜を甘やかしてくれたし、葉菜を守ってくれた。春ちゃんがいなかったら、少なくとも葉菜は引きこもりになっていたかも知れない」

「いや、そんなことは──」

「春平君」

呼び方が、戻った。

どこか改まるような空気と、微かに聞こえる深呼吸。

「……娘を、頼みます」

何故か涙があふれて、俺はどこへ向けてというわけでもなく、深く頭を下げた。

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