第4話 邂逅

 どのくらいの時間が経っただろう。青年が火を絶やさぬよう寝ずの番をしていると、突然 洞穴ほらあなを吹く風の色がかすかに変わった。


(――風が異変を伝えようとしている)


 ショーンは外していた長剣を手に取ると急いで腰にいた。メラニーを起こさないよう、気配を消して静かに洞穴の入り口へと向かう。


 洞穴の外をうかがうと、満月の明かりにほのかに照らされた人影がひとつ。

 暗くて色は定かではないが、黒っぽいローブを身にまとい、フードを目深にかぶった細身の長身の姿が見える。

 その手には、地面から胸までの長さがある、金属製の杖が握られていた。

 杖の持ち手の先端には、月光に紅黒く輝く宝玉。


(あの日見た、故郷を焼いた男の出で立ちとまるで同じ――まさか)


 背骨をぞわりとした暴力的な熱いものが一気にい上がってくる。全身の毛が逆立つ感覚。憎悪の念が一瞬にしてショーンの中でふくれ上がった。今すぐにでも飛び出してその人影に斬りかかりたい――そんな衝動に駆られる。

 その衝動を抑えきれず、ショーンの右手が剣の柄を握りしめた。そのとき、何故か不意に昼間聞いた歌声が頭をよぎる。

 ショーンはハッと我に返った。


(冷静になれ。でなければられる――)

 彼の本能がそう告げる。


 ショーンは怒りに震える手を剣から離した。心を落ち着かせようと空をあおいでまぶたを閉じ、深く息をしてからいったんうつむく。そしてゆっくりと正面に向き直り瞼を開くと、静かに洞穴の外に一歩踏み出した。



「お久しぶりです。すっかりいい青年になられましたね」


 ショーンの姿に気づくと、男が先に声をかけてきた。言葉遣いは丁寧だが、そのつやのある声には底冷えのするような冷たさがある。


「お前は、やはりあのときの――」


 怒気を含んだ、低く静かな声がショーンの口かられた。


「おや、覚えていてくださるとは光栄です。あれから九年……いや、もう十年になりましたか。あなたは気配を消すのがとても上手だ。探すのにこんなに時間がかかってしまうとは。精霊たちも、随分ずいぶんと遠くにあなたを飛ばしてくれたものです」


 ショーンは全身の血がたぎるのを感じた。どす黒い赤の得体の知れない熱い塊が背骨を駆け上がってくるような、そんな感覚。こみ上げる怒りに我を忘れそうになる。


(挑発に乗ってはダメだ。憎しみに呑まれるな)


 はやる心を必死に抑え、静かに問う。


「お前は何者だ。俺に何の用がある」


 ローブの男はフードを脱いで、うやうやしく一礼した。

 深い紫色の瞳がまっすぐにショーンを見る。目の鋭い、思ったよりも若そうに見えるその男の、短めに切り揃えた黒髪が月光にさらりと揺れた。


「わが名はキース。主の命を受け、あなたをお迎えに参上いたしました」


「お前が欲しいのは、この腕輪だろう?」


 ショーンは左腕を胸の前に出し、袖をまくって腕輪を見せる。キースと名乗った男は、微笑みで返した。


「ええ。でも私では、その腕輪の真の力を引き出せない。だからあなたに同行していただきたいのですよ、ショーンさん」


 その言葉に、どうにか抑え込んでいた憎しみがショーンの中で再び暴れ狂いはじめた。憎しみ……いや、そんなに生易なまやさしいものではない。これは、殺意――。


「……嫌だと言ったら?」


 静かな怒りをたたえたショーンの言葉に、キースは小さくかぶりを振った。


「やれやれ、できれば手荒な真似はしたくなかったのですが……どれ、熱くなった心を少し冷やしましょうか」


 ――ズキン!


 目が合った瞬間、キースの瞳が赤く輝く。突然ショーンの頭を突き刺すような激しい痛みが襲った。全身に悪寒が走る。ショーンはよろめき、反射的に右手で額を押さえた。


「くっ……貴……様、何をっ!」


 深い紫色の瞳に戻ったキースはふわりと微笑んだ。


「あなたの意志で来ていただけないのならば、その意志を消すまで。ほら、あまり抵抗すると廃人になってしまいますよ」


 視界がぐらりと揺れる。あまりの痛みにショーンは立っていることができず、小さくうめいて地面に両膝を突いた。

 寒い。激しい頭痛とともに言い知れぬ恐怖と焦燥感しょうそうかんが湧き上がり、ふくらんでいく。心が不安に呑まれそうになる。


(落ち着け。何でもない。不安に呑まれればこいつの思うつぼだ)


 必死に自分に言い聞かせるが、得体の知れない不安と焦りが膨らんで息苦しくなる。ショーンは激しい動悸どうきに胸を押さえてうずくまった。嫌な汗が額ににじみはじめる。


 キースは微笑みを崩さずショーンを見ている。

 ショーンの呼吸がだんだん荒くなっていく。

 頭をギリギリと締めつけられるような痛みも加わった。ショーンの頭痛はどんどん激しさを増していく。焦る心を止められない。


(――頭が、割れる)


 ショーンは激しくあえぎながら、左手で地面を、右手で額をそれぞれ掴んで握りしめた。

 ひどい吐き気が彼を襲う。苦痛と恐怖、そして寒さに身体が震えはじめる。ショーンは右手で口元を押さえた。ショーンの背中が数回、大きく波打つようにもだえる。

 彼は逆流してきたものを懸命に飲み下し、右手を口元から放した。

 膨らむ不安と恐怖に押しつぶされそうになる心。激しい苦痛と寒気がそれに追い討ちをかける。


「俺の意志――消されてたまるかッ――」


 見えない力にあらがうように握りしめた右の拳。ショーンはその拳を思いきり振り下ろして地面に叩きつけた。キッと顔を上げ、キースをにらむ。

 歯を食いしばって右膝を立てた。その膝を、少し血の滲む右手でがっしりと掴む。脚と腕に力を込めて、ショーンは必死に立ち上がろうとした。だが、痛みと寒さ、そして恐怖に震える身体には思うように力が入らない。

 ショーンの両膝が地面から離れる。彼はキースから視線を外さず、よろめきながらもどうにかなかば立ち上がった。

 そのとき、楽しげに微笑んだキースの瞳が再び一瞬赤く輝いた。えぐられるような強烈な痛みがショーンの眼を射る。


「あぐっ!」


 激しい痛みに漏れた声を、必死に飲み込む。ショーンはたまらず両眼をグッとつぶり、反射的に膝から手を離した。そのまま大きく体勢を崩して前のめりに倒れていく。彼は咄嗟とっさに両肘と膝を突いて、辛うじて地面にいつくばった。


 まるで自分とは別の何か……黒い霧のようなものが頭の中に入ってきて、記憶や感情といった彼の意識をぐちゃぐちゃにかき混ぜていくような不快感も加わる。

 全身の震えが止まらない。自分の意志……いや、自分という自我が消されていく焦りと恐怖。激しい苦痛の中、ショーンは恐怖に支配されそうな心と必死に闘う。しかし、ひどい眩暈めまいがして、だんだん何も考えられなくなってくる。嫌な汗が全身に吹き出して、冷えた夜風が恐怖に拍車をかける。

 ショーンはそれでもなお立とうとした。立てばこの状況から解放される? いや、そんな訳ではない。彼にもそれはわかっている。それでも、立とうとせずにはいられない。

 それなのに、身体が思うように動かない。上体をほんの少し上げるだけでも倒れそうになる。

 更に激しさを増す痛みと不快感に、意識が朦朧もうろうとしてくる。


(意識を失ったら俺は俺でなくなる。生きながら何もかも失ってしまう――)


「う……ぐっ」


 痛みと恐怖に抗い懸命に起き上がろうとするショーンの喉の奥から、堪えていた呻きが微かに漏れる。黒い霧に次第に呑まれていくような朦朧とした意識の中、焦りがどんどん膨らんでいく。


(嫌、だ! もうこれ以上、何も失いたくない。負けたく、ない。呑まれたく――ない――)


 右肘が地面からわずかに浮いた次の瞬間、ショーンはとうとう地面にうつ伏せに倒れ込んだ。

 倒れてもなお必死に抗い、時折苦しげな声を上げながら身を起こそうと足掻あがき続ける。しかし身体が言うことを聞いてくれない。どうにかしてうつ伏せから横向きに体勢を変えることはできたが、今の彼にはこれが精一杯だった。激しい苦痛と自我の消されていく恐怖に、もう苦悶くもんの声も抑えることができない。それでも恐怖の声だけは絶対に上げまいと必死に抵抗を続ける。


「うあぁっ! ぐ――うっ」


 声をあげながら、両手で頭を抱えてショーンは激しい苦痛と恐怖に抗った。抗えば抗うほど、それらは強まる。ショーンは呻きながら悶え苦しみ、地面をのたうち回った。キースが楽しげに微笑んでそれを見つめている。

 キースの冷たくどこか妖艶ようえんささやき声がさそうように響く。


「ほら、苦しいでしょう? さあ、私にその意思をゆだねなさい。すぐ楽になれますよ」


 まるでその囁きが合図だったかのように、突然ショーンの全身を強い衝撃が襲った。身体が熱い。稲妻が貫くような、激烈な痛みが全身を駆け巡る―――。


「ッ――ああああアァッ!」


 ショーンはその痛みに耐えきれず、一瞬目を見開き弾かれたように仰け反って一声叫んだ。

 直後、彼の全身から一気に力が抜けていく。視界がぼやけ、次第に闇に呑まれていく――。

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