第57話 修道院
「レナート、食事の時間ですよ」
「はい、シスター」
あれから九年。
塀によじ登って見える外の世界に焦がれた少年は自分が忌々しきあの家の外に出られたことを常々感謝していた。
そもそも家の外どころか別の国、はたまた別の世界まで飛び出していることを理解しながら。
あの家でないのならそれでいいと、住んでいる修道院で神へと祈りをささげる毎日。
精神年齢は十八歳、九才でありながら誰よりもしっかりとしており年上からも頼られる弟。
修道院の中へと戻るレナートの下に青年と少女が駆け寄ってくる。
一人は修道院最年長の兄エト、年は十五。
そしてもう一人は下から八番目の妹マイ、年は七。
「レナ頼むよ、こいつに勉強を教えてやってくれないか?」
「お兄ちゃんが勉強教えてくれるって言ってたのにわからないばっかりで教えてくれない」
「ばっ、ばか言え兄ちゃんは肉体派なだけだ、ほら見ろこんな長椅子も兄ちゃん持ち上げられるんだぞ」
現れたのは
紙とペンを持ったまま抱き着いてくる少女の頭を撫でていると目の前で兄がとてつもなく長い椅子を持ち上げ始めた。
「……兄さん、力自慢もいいですがこれから食事です。あまり埃は立てないように」
微笑んでいるのに恐ろしい。
そっと長椅子を降ろすと頭を下げた。
「マイ、そういうわけでこれから食事です。勉強はその後にしましょう」
しゃがんで今度は優しい微笑みを少女に向ける。
「うん、わかった。お兄ちゃん」
頭を撫でると立ち上がり、食事の用意をしに先に行く。
「なんかさ」
しゃがみ込んでこっそりと耳打ちをする。
「あいつシスターに似てきたよな」
「大好きなシスターが男の子に……そっか、だから私お兄ちゃんのこと好きになったんだ」
ノートを抱きかかえ撫でられた頭に愛おしそうに触れる。
「……あいつはやめとけ。他に良い男はいるとか言うような自分の価値を知らない男だ。好きだと言っても、愛していると言っても届きはしない」
ぷくーっと頬を膨らませる少女に苦笑いを向ける。
「わるいわるい、やめとけとは言ったがあいつが誰かを好きになるまでは協力は惜しまないさ」
「ふんっ」
プイッとそっぽを向いてレナートを追いかけていってしまった。
「エト、あなたなにしてるの?」
見上げるとそこには一人の少女がいた。
年齢はエトより一つ下の十四歳の少女メリッサ。
「俺も十五だしそろそろお金稼がなきゃなーとそう思ってきまして」
「……途中から見てたわよ」
「そりゃないぜリサ」
声に出して笑うと飛び起きるかのように軽やかに立ち上がり食事を運びに他の子供たちの方へ向かう。
「出て行ったりしないでしょうね?」
「さぁな。外がどんな場所かよくわからないし何とも言えねー。ただ、今はここが俺の居場所だ。てか早くお前も来い、年長組が手伝わないでどうする」
エトの背中を見つめるメリッサを振り返り見つめる。
「わかってるわよ」
目が合うだけで顔が熱くなる。
「私が、あなたの居場所になるから」
十五歳になればもう大人。
この修道院をこの先も子供たちの居場所とするにはお金がいる。
働けるようになるのなら働くのが一番だ。
この修道院しか世界を知らなかったエトも外の世界を知る。
ここよりもずっといい場所を見つけるかもしれない。
もう、帰ってこないかもしれない。
弟妹を捨ててどこかへ行くような兄じゃないとわかってはいるが、他の誰にも聞こえないような小さな声で覚悟を決めた。
好きなひとを絶対逃がさないと。
「ん、何か言ったか?」
「ナンパばっかしてないでちゃんと稼ぎなさいって言ったの」
「当たり前だ。ほらいくぞ」
厨房に入り小さな子供たちの代わりに食事を持ちテーブルへ運ぶ。
「お前達食事運んでるんだから走り回るな」
「溢したら食事抜きになるわよ」
走り回る子供たちを簡単そうに避けながら、注意をしていく。
「皆さん」
声が通り抜けた。
子供達が立てる騒音の中を掻き消される事無く修道院内にいる全ての者に届く。
全員が足を止め振り返った先で少年が微笑んでいた。
「シスターを困らせてはいけませんよ」
「レナート、そんな仰々しくやらずとも皆聞いてくれますよ」
厨房から鍋を持ってシスターが現れた。
優しい微笑みをレナートへ向け、そして修道院の子供たちに向ける。
「さ、席について、食事を始めますよ」
透き通った綺麗な声が修道院内を響くことなく消えていく。
音の消え方まで綺麗な声に従って子供たちは席に着く。
シスターとエトが唱える祈りの言葉を復唱する。
全てを唱え終わると食事を始めた。
「どうしたのですか?皆さんもっと話しながら食事をしてもいいのですよ」
一言もしゃべらず黙々と食事を続ける子供たちに何も気にする必要はないと微笑む。
しかし誰一人として言葉を発さない。
微笑むシスターとレナートを前に完全に臆していた。
「はぁ……レナ、今日は何を見た?」
エトがため息まじりに話を振る。
その表情から、助け舟は出してやるから自分でやれと読み取れた。
「そうですね……今日は空を見ていました」
「兄ちゃんいつも空なんか見て楽しいの?」
天井の先の空を見つめていたレナートは視線を小さな弟に視線を向け優しく微笑む。
「楽しいというよりは、嬉しいですかね」
「嬉しい?」
「ええ、私の知る空とは違う空が、とても嬉しいのです」
「……よくわかんない。レナ兄ちゃんの言うことはむずかしーい」
わからないわからないと隣に座るレナートの膝の上に身体を倒した。
頭を撫でながら再び空を見上げる。
自分の知る空と自分の知らない空を併せてその差を見る。
大きな大きな違いを嬉しく思う。
「あなたにも、空を見上げた時に何か思う日が来ますよ。きっといつか、もっと大きくなってから」
「そういうものなのー?」
見上げ問いかける少年に微笑む。
「さぁどうでしょう?人は誰しも違いますから、私と同じように思うかは誰にもわかりません。私にも、シスターにも」
「そーなのー?」
顔を上げてシスターに問いかける少年にシスターもまた微笑んで答えた。
「ええ、私にもわかりません。あなたが、あなた方が、一体どんな風に成長するのか、それを想像する事しか出来ません、期待に胸を膨らませる事しか、私には出来ないのです」
「うーん……やっぱりよくわかんなーい。けど……」
少年は笑顔で拳を振り上げた。
「シスターの事お腹いっぱいにするー」
「「するー」」
話を聞いていた子供たちが一緒になって拳を振り上げた。
「ええ、よろしくお願いしますね」
シスターは、そして年長組とレナートはその様子を微笑ましげに見つめていた。
いつものように幸せな日常。
レナートの、新たな日常だった。
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