雪を溶く熱 

山帰来

気づかない男

 かじかむ片手の指先に息を吐きかけた。視線の先で、古びて割れた看板が明滅し、中で羽ばたく蛾の影を浮かび上がらせていた。


 深夜、アーケード街。


 汚らしく剥げたシャッターが軒を連ねるが、大半は眠ったままなのだろう。アートと呼ぶにはお粗末な落書き、そのキャンバスに成り果てていた。


 幾重にも幾重にも、スプレーで上から。


 視線という視線から見放された通りで、その軽快で大胆な筆致だけが我が物顔ではびこっていた。


 ここもなのか。


 漏れた息が震え、白く膨らむ。目蓋の裏に繰り返し描いた心象風景が、またひとつ消えたことを私は知り、その場から逃げるように駆け出した。


 急がねば。

反響した靴音が四方に広がった。町並みは跡形もなく様変わりしていた。記憶に基づく直感に近いものを信じて私は進む。

 15年だ、こんなにも覚えているものだろうか。ここには確か、ナンセンスな薬局のキャラクターの置物が置かれていた。それを左手に脇道へ。


 申し訳程度の光すらなくなり、路地裏の暗がりに身を浸した。雪を載せた室外機にまでしつこく追いかけてくるスプレーの落書きを横目に、気づけば息を切らしていた。

 多分このまままっすぐだ。道なりに行けば見えてくる。


 記憶に間違いはなかった。見つけた。あった。

 その時の気持ちが、一体何で構成されているのか自分でもよく分からなかった。膝に両手をつき、息を整えた。その息で、私の周囲がスモークをたいたように白く煙る。


 まだ、ここにあったのか。


 乱れた呼吸のまま、上目でそこを見た。半地下の煉瓦造り。階下の入り口には看板が掲げられ、ウォールランプがwelcomeと印字する赤い玄関マットを温かく照らしていた。closedそう掛けられたドアの向こうの様子は伺い知れない。

 久しぶりに走ったせいか、頭が痛い。原因はそれだけだろうか。

 まぁいい。決心が揺らぐ前に、仕事に取りかかろう。

 さようなら。

脳内でたった五文字呟いて、もう一度息を吸った。

 

 さよならだ。


「もしかして秋人?」

 見咎められた気がして、私はびくりと肩を震わせた。背中越しにかけられた聞き覚えのある声に振り返ると、沈んだ白銀の世界にその人が佇んでいた。

 私の顔には戸惑いの色が浮かんでいたに違いない。偶然にしては出来すぎていた。

「美冬か? こんなことってあるんだな」

 彼女は駆け寄ると嬉しそうにはしゃいで見せた。

「やっぱり! ずいぶんと久しぶりじゃない。こんな時間にどうしたの?」

 甘い香水の薫りが鼻先をくすぐった。

「君の方こそ」

「私を何だと思ってるの?」

 笑って肩を竦める美冬に、つい自分の知る彼女を探していた。瞳の中のあの日に、私の意識は引きずり込まれる。

 

 喫茶店の喧騒がどっと押し寄せた。

 ドアベル、靴音、テレビの賑わい、調理音、もそもそとした話し声、お冷やを注ぐ水音。

 記憶の中で私と彼女は向かい合っている。学生服の彼女がテーブルに広がる私の履歴書を見つめながら、体入した店の内のひとつで働くことにしたと告げた。

 体入、体験入店。

 夜の世界で働くということよと美冬は笑った。

 その結論に至るだけの冷えきった現実。それはもう随分と前から、払えない煙のように美冬の周りを取り巻いていた。

 それに薄々気付いていながら、私は彼女の嵐が過ぎ去るよう祈っていることしか出来なかった。ブレザーの袖から伸びた拳を握り締める。

 開きかけた口を噤み、心配や不安の言葉と共に冷めたコーヒーを飲み込んだ。彼女にはもうそうするしかないのだ。

 私は彼女のスクラップブックのようなものだ。気づかぬ内に思い出を共有していた。昔馴染みとは大体そう言うものなのだろう。

 言葉少なで済むやり取りを阿吽の呼吸と言い変えてしまえば聞こえはいいが、自分が知る相手とおぼしき物にそれだけ縛られるということでもある。

 この時もまた、彼女を知りすぎたが故に掛ける言葉をなくし、私はコーヒーカップ片手に押し黙っていた。


 彼女を愛していた。でも、それだけだった。私は若く、与えられるものは自分の心しかなかった。

その愛情にすら蓋をした。無力な感情だと思ったからだ。

 美冬を喫茶店に待たせ、私はその足で靴屋に向かった。女物の靴のことなんてさっぱりで、私は目についた一番ヒールの高い靴を指差した。

 慌てて戻り、言葉の代わりに渡したそれを、プレゼントなんて初めてくれたと美冬は喜んだ。無邪気に手放しで喜んだ。

 自分にますます嫌気がさして、彼女の存在ごと目をそむけてしまった。そこから先に彼女の姿はない。

 取り返しのつかない過去として、不在の彼女は私の後ろに立ち続けた。それが15年前。

 振り払うように、また私も生きた。


 今は白いアスファルトのステージ。

天を仰ぐと穴のように暗い空から静かに雪が降り注いでいた。

 彼女はそこに気高く佇んでいた。その背後に見える泥交じりの積雪すら、私には白貂の毛皮に思えた。足元にはあの頃よりも高いヒール。

 ようやく彼女と向き合えた。今も昔も、彼女は私の理想の人そのものだった。

「何? 改まって」

「いや、久しぶりだからさ」

「女っぷりが上がってびっくりしたんでしょ」

 美冬がふざけて髪をかき上げた。手入れの行き届いた美しい巻き髪が雪を絡めてふわりと広がった。

「あぁ、そうだな」

 それだけ言って、彼女の肩にかかっていた雪を払った。ふたりの距離を確かめたかったのかもしれない。

「それだけ? 相変わらずモテなさそうな切り返しね。それってわざとなの?」

 笑顔の彼女が詰め寄る。

「格好つけたって今更仕方ないだろ。それにしてもヒール、高くないか?」

「この方が脚が綺麗に見えるのよ。どうせそんな違い、秋人には分からないでしょうけど」

 私は声を出さずに笑った。懐かしい軽口の応酬だった。

 

 「店、寄ってく? 今の秋人なら歓迎よ。見ない間に少し老けて見えるくらい貫禄ついたわね。いぶし銀って言うの?そういう渋さ、私は好きよ」

 ポケットに入れていた私の腕を彼女が捕まえた。

「待ってくれ、」

 思わず出た大声に、ここで良いと付け足すと、下唇を軽く噛んだ。

「何か言った?」

彼女が振り向いた。

その奥に眠る少女に、

 「君のことが好きだった」

かつて認められなかった気持ちを私は打ち明けた。


 美冬が小さく目を見開き、マスカラを塗った睫毛を微かに震わせた。

 そうしてグロスを塗った唇を静かに横へ引き、穏やかに言った。

「今更素直になるなんて、変ね」

 その口ぶりが物語っていた。昔から鼻のきく女だった。暴かないことに特化したその嗅覚を彼女の美点だと、当時の私は本気で思っていたというのに。

 私は自嘲した。気持ちを隠せていると思っていたのは結局私だけだったのだ。その目に映る私はどれほど意気地のない男だったことか。

「本当だな。それに勝手だ。けど、伝えたかった。別の女と結婚するんだ。それで、」

 続けたかった言葉は、勢いよく顔を上げた美冬に遮られてしまった。

「そうなの。秋人でも出来たの。おめでとう」

 そう目を輝かせ、祝福の言葉をくれた。きっと明るい生活が待ち受けているに違いない。そう信じさせてくれる声だった。

 よりによって、その相手が彼女だなんて。我ながらおめでたい男だと自分を思った。

「悪い、自分でも何を言ってるんだか。まさか君に会えると思ってなかったから」

「全然。味方が出来るのなら、その相手が私でなくてもうれしいの。昔からずっとそう思ってた。腐れ縁の愛の終着点ね」

 彼女は微笑んで、小さなバックから煙草を取り出し、火をつけた。

「でも、あの常套句ぐらいは言わせなさいよ。あら、新婚さん? 今が一番良い時ねー」

 いじやかすような横目で煙を吐く。

「これ、呪いの言葉だから。よく覚えておくことね」

「今が一番か。確かにそうかもな」

 その言葉は吐かれた煙と共に鈍い予感となって私の奥に垂れ込めた。

「ちょっと真に受けないでよ。これ、初心忘るべからずっていう私なりのエールなんだから」

「それは分かりづらいな」

 携帯灰皿に唇の色の移った煙草を押し付ける横顔。

余計なものを削ぎ落としたシャープなフェイスライン。その隙のない女らしさに反して、長年の酒と煙草にざらついた声は少し低かった。

「上手くやれそう? 彼女、どんな人?」

 何てことない口調でも、彼女の心配が伝わった。だから私も直球で返した。

「君のことは彼女も知ってるよ」

「それで?」

 彼女の方も手短だった。

「無理に選ばなくていい。そう言ってくれた」

「秋人を選ぶだけあるわ、妙な女。私とも上手くやれそうかしら?」

 私は黙った。

「ねぇ、どうしてここに来たの? 結婚の報告なんて言って誤魔化してないで、ちゃんと教えてよ」

 その呟きは路傍の雪に吸い込まれた。

彼女の片手が私の手首に触れる。横顔に視線を感じた。

「本当は私、あなたがここに来た目的も分かってるの。ただ、あなたの口から直接それを聞いて、納得したいだけなのよ。だから言って、お願い」

 灰のような雪が降っていた。

 凍てついた空気が頬を刺す。開こうとした乾いた唇が破けて、そこから血の味がした。


「頼む、死んでくれないか」


 路地裏は静まり返った。無言で彼女は瞼を閉じ、その下の眼球がごろりと動いた。

「やっぱり私、式には呼ばれないのね」

 彼女の顔を見るのが怖くなった。堰を切ったように彼女の感情は溢れ出す。

「見てくれだけは立派になっても、やっぱりどこまでも勝手な人ね。ねぇ、私に死んでほしいって、それは誰のため?」

 手を離してほしかったが、冷たい手がもう一本加わりそれを制した。

「俺のためだ。死んでくれ、お願いだ。頼むよ」

 許してくれ。そう叫んでいた。

彼女のため息が聞こえた。私は顔を覆った自由な片手の指の隙間から彼女を盗み見た。

「恨みっこなしね。私、あなたの運命の女ファムファタール気取りだったの。絶対あなたはまた私に会いに来るって分かってた。会わない間もずっとよ。でも、実際その通りだったんだわ」

 凄然とした眼差し。掌の向こうで美冬が私という人間を観察していた。そのどこにも表情がない。

「どういう意味だ?」

「私はあなたの破滅を誘う危険因子として排除されるのでしょう? それは私の魔性を認めたってことよ。だって、そうでしょう、」

 一瞬の隙に、掴まれていた腕を振り払う。

 握っていた物が彼女の足元へ落ちた。

 白いハンカチに包まれたそれを、彼女が拾い上げてしまう。

「じゃなきゃ、私を消す必要ないもの。せめてもの救いは、それが私たちの愛のためってことぐらいかしらね」

 彼女がそう呟き、ハンカチを暴いた。空洞のような双眸が中を捉えた。

 瞳の表面に、ラッカースプレーの缶が映った。


「自分で出来るか?」

 この驚くくらい非情な声は誰だ。


「そうするわ。見送られるのは性に合わないから」

 美冬は淡々と言い放った。彼女は強かなのだ。

「心配だわ。私の目の届かないところで奥さんを半端に愛したりしないか。そんなことしたら許さないから」

「焼きもちか?」

 美冬が俺を睨んで黙った。その視線に背を向ける。


 階段の下の暗闇には、橙がぼんやりと浮かび上がっていた。

 一歩、また一歩と下っていく。

 冬に良い思い出なんか何一つなかったあの頃。それどころか、どこにも居場所がない自分を囃し立てられるようで、冬は大嫌いだった。

 偽りの衣を脱げば、あの白銀の世界に行けるだろうか。美しい冬を見れるのだろうか。

 そうやって歩数を数えて一歩ずつ辿ったこの道のことを、俺が忘れられる筈がなかった。


 美冬。物心つくずっと前から俺の中にいる女。

  美冬、お前は俺なんだ。お前も俺だと認めるよ。

 好きだ、愛してもいる。今ならそれも認めよう。

  でも、やっぱりお前が邪魔なんだよ。


 美しい冬の思い出に焦がれたまま、俺のために死んでくれ。

美冬として働いたこの店を、今日俺は葬りに来た。


 大丈夫だ、きっと出来る。

  明日には明るい未来が待っているんだ。


 掌の中で変形するほどスプレーを強く握りしめた。

肘で口元を覆い、無彩色の雪の世界を噴出する色の霧で台無しにしながら、俺の視界は陽炎のように揺れていた。

「流石、慣れてるだけあるわね。芸術性すら感じるわ」

 絶え間なく缶から漏れる音の狭間で、そう美冬の声が聞こえた気がした。

「おやすみ、美冬」

 その呼びかけだけが虚ろに響いた。



 アーケード街の入り口。


  その向こう側に消える彼を私は眺めている。清々しい薄明に照らされたその背中に私は語りかける。

「約束通り美冬は死ぬわ。けど、次は違う名前であなたと会うことになるかもしれないわね」


 何かを殺せば、どこかが歪む。終わらないの。

  それに早く気づいて。


  落書きまみれのこの街で、私は彼を思って泣き笑いを浮かべた。残されたスプレーを天高く掲げて。

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雪を溶く熱  山帰来 @nikako

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