第五十九話 体験航海 9
「
「あ、すみません、気をつけます!」
さっきから比良は、にたにたしっぱなしだ。理由は俺達の前にある。
『真面目にしないか、バカ者どもめ』
「俺は真面目に見回りをしているさ。真面目にしてないのは比良のほうだ」
「すみません。でも、目の前で可愛いしっぽが揺れているんです、気が散ってもしかたないですよ~」
比良の呑気な答えに、大佐はイヤそうな顔をして振り返った。比良が見ているのは、大佐のシッポだ。猫神候補生達のしっぽが見えたのをきっかけに、比良は大佐のしっぽも視認できるようになっていた。あくまでもシッポだけだが。
「比良、いい加減にしないと、そのうち猫パンチをくらうぞ? 大佐、すっげーイヤそうな顔してるから」
「猫パンチ! いいですねえ、猫神様の猫パンチ。早く食らいたいなあ……」
「ダメだこりゃ」
比良はますますヘニャッとした顔になった。
『まったく。
「そりゃあ、比良の実家には猫がいるらしいし、猫飼いのエキスパートだからな。っていうか、俺は妙じゃないぞ」
『どうだかな』
もちろん全部が見えているわけではないらしく、ゆらゆら揺れているしっぽと、大佐の声が聞こえる程度なんだそうだ。候補生達より先に大佐が見えそうなのは、おそらく大佐が猫神としての力が強いためだろうとは、
『比良、ニタニタするのは良いが、
「
『……』
ダメだこりゃと言わんばかりに、大佐がため息をつく。
「比良、俺と同じこと言っててうけるわ」
「そりゃ、
「だよなー」
『夏目なにがしの話はよいから、ちゃんと目を見開いて周囲を観察しろ、バカ者どもめ。
そう言うと、大佐は走っていき、突き当りの壁の中へ消えていった。
「あー……しっぽさんが……」
「お前がしっぽばかり見るから、身の危険ならぬ、しっぽの危険を感じたんじゃないのか?」
「触りたかったです」
「そんなことをしたら、間違いなく猫パンチだな」
体験航海は終わったが、みむろ艦内では通常の課業が残っている。そして見学ツアーに参加した俺達は、それとは別に、見学者達の忘れ物や落とし物がないか、歩いたコースを見て回っていた。
「俺達は、リアルな忘れ物と落とし物の確認もしなきゃいけないんだからさあ、こっち方面のやつは、候補生達にやらせろよなー。大佐も大尉も、なにげにあの三匹には甘いんだから」
以前、黒い球体の
「そりゃ、子猫だからじゃないですか?」
「俺にはさんざん、甘やかすなとか餌づけするなとかいうくせにな」
「ま、相手は猫ですから。前の黒い汚れって、変なにおいしてましたよね?」
そう言いながら、比良は壁を軽く叩き、においを確認している。
「猫神だぞ?」
「それでも猫には違いないですよ」
「すっかり飼い猫あつかいだな」
俺の話をすんなり信じたのと同じで、比良はすっかり猫神の存在になじんでいた。その順応性には驚くばかりだ。
「そんなつもりはないんですけどね。やっぱり見えるのと見えないのとでは、ぜんぜん違うなあって、実感しているところです」
「そこなのかよ」
「そこでしょ。猫ですよ、猫。あこがれの艦内猫ライフです」
「もう大佐のことも引き取ってくれよ。毎晩、寝るのが大変なんだよ、邪魔で」
「どうでしょうね。猫は自分が決めた場所以外では、絶対に寝ませんから」
「マジかー……」
かんべんしてくれよと思いつつ、ドアの前に立つ。そして深呼吸をしてからノックをした。
「なんだ、船酔いか?」
ドアの向こうから野太い声がする。
「失礼しまーす、波多野海士長でーす」
そう言いながらドアを開けた。ここは医務室。返事をしたのは、この部屋の
「なんだ、お前は船酔いはせんだろ」
「もう接岸しましたから、比良でも船酔いしませんよ」
「だったら何の用だ。俺の医務室に勝手に入ってくるんじゃない」
三佐は実に変わっていて、この医務室を俺の部屋と言ってはばからない。乗員が勝手に入ろうものなら、相手が艦長であろう誰であろうと、メスが飛んでくるという噂だっだ。……あくまでも噂だ。
「艦長命令ですよ。ここも見学者が入ったじゃないですか。忘れ物と落とし物がないか、見学したコースを確認中なんです」
「俺の部屋に勝手に落としていくとは、まったくもってけしからん見学者だな。地本にクレームを入れてやる」
「そうじゃなくて、落ちているかどうかの確認です。落ちているとは決まってませんよ」
「あたり前だ。見学者が出ていってから、なにか落ちていないか俺がチェックした。ここには余計なモノはいっさいない。お前以外は」
目がマジだった。イヤな予感がしてジリジリとあとずさる。そして比良を呼んだ。
「おーい、比良ー、医務室の確認を頼むわ。俺がウロウロしたら、仲塚三佐のメスが飛んできそう」
「メスを飛ばしてほしいのか」
「飛ばしてほしくありません! 比良ー?」
「どうしたんですか、波多野さん」
比良が首をかしげながらやってくる。
「医務室の確認、お前に任せる。俺には無理だ」
「えええ? なんでですか。あ、仲塚三佐、お疲れさまでーす」
不穏な空気をものともせず、というか、まったく気にした様子を見せず、比良は医務室に入っていった。
―― さすがだ、比良。俺には絶対にマネできないぞ…… ――
「医務室になにか用なのか」
「落とし物の確認です。最近の人はバッグにたくさんキーホルダーをつけてますからね。そういうのが落ちてないかの確認なんですが」
「キーホルダー、な。それなら落ちていたぞ」
「それは良かった。自分から副長に渡すので、いただいていきます」
「わかった」
三佐は引き出しから小さなキーホルダーを出す。そしてそれを比良に手渡した。
「余計なモノはないって言ったのに、あるじゃないか」
俺は納得いかない気分でつぶやく。
「なにか言ったか、波多野」
「いいえ! なにも申しておりません! 落とし物の確保、ありがとうございます!」
俺は敬礼をして廊下に引っ込み、数秒遅れて比良が部屋から出てきた。そして敬礼をしてドアを閉める。
「比良、おまえ、すげーよ。なんで平気なんだよ、今の仲塚三佐の状態に」
「三佐、いつもあんな感じですよ? まあ今日はちょっと虫の居所が悪かったですかね。俺達と同じで、見学者さん達が来たから緊張していたんだと」
「そんなことあるかよー……」
どう考えても、メスが飛びそうだったじゃないかとツッコミを入れる。
「あ、それともアレかな。船酔いする人も出なくて、活躍する場がなかったのが残念だったのかも」
「そんなことあるかーい!」
さらにツッコミを入れた。
そして俺達は最後にヘリの格納庫に出た。ここでは落とし物や忘れ物以外に、気になることがあった。最初に女性見学者の肩にいた赤い物体だ。つまみとってあの場で踏みつぶしておいたが、あんな対処法で良かったんだろうか? あれから相波大尉はなにも言ってこないので、特に問題は起きてないようだが。
「どうしたんですか、波多野さん。そんなに足元を観察して」
「え? ああ、ちょっと気になることがあってさ……」
踏みつぶした場所の周囲を、念入りに観察する。赤い色も残っていないし、その手のモノが隠れている様子もない。俺が見た感じでは問題なさそうだ。
―― ああいうのを洗い流す、洗浄液とかスプレー剤があると良いんだけどな ――
そうすれば大尉だって大佐だって、この手の見回りが楽になるだろうに。
―― あー、そうでもないか。大尉の手間だけが増えることになるか ――
考えてみれば、猫の手だとスプレーは使えそうにない。どう考えても大尉だけが割を食いそうだ。
+++
「あ、
階段をあがろうとしたところで、降りてきた先任伍長の清原海曹長と鉢合わせした。
「おう、お疲れさん。見学者さん達の落し物はあったか?」
「自分達の見回り範囲では、医務室にキーホルダーが一つ。仲塚三佐からあずかりました」
「そうか。毎度のことながら、けっこうな忘れ物や落とし物があるな」
「他にもなにかあったんですか?」
海曹長の口ぶりから、俺達が医務室であずかったキーホルダー以外にも、忘れ物があったらしい。
「トイレと機関室でハンカチ、それから食堂でデジカメのレンズカバー。トイレにあったハンカチだが、ピンクのうさぎ柄だったんだ。まさか、お前達の持ち物じゃないよな?」
「いやあ、どうなんでしょうか。それぞれ色んな趣味ありますし……」
だが女性用のトイレにしておいたトイレで見つかったということだから、間違いなく見学者の忘れ物だろう。忘れ物と落とし物は、明日のうちに地本に届けられることになっていた。
「では艦長に報告してきます」
「今日はお疲れさんだった。今日は定時であがりだったな。家に帰ったらゆっくり休め」
「ありがとうございます」
敬礼で海曹長を見送ると、俺と比良は階段をあがる。そして艦橋に入った。
「艦内の見回り、終了しました。医務室で落とし物が一つありましたが、それ以外には特に問題は見受けられませんでした」
「ご苦労だった」
俺の報告に、艦長がうなづく。
「落とし物はこの箱に。地本へは明日、こちらの広報担当から届けることになっている」
「お願いします」
比良がキーホルダーを箱に入れた。
「よりによって医務室でか。仲塚、ご機嫌斜めだっただろう」
艦長がニヤッと笑う。
「少しばかり斜めでした」
「だろうなあ」
―― 少しどころか、かなり斜めだったけどなー…… ――
心の中でぼやいた。
「他に異常はなかったか?
落とし物や忘れ物のことではなく、猫大佐案件のことだとすぐにわかった。
「今回は伊勢海曹長の出番はないと思われます」
「そうか。そちらもご苦労だった。あと一時間ほどで終業時間だ。それまでは各自、自分の持ち場で仕事を続けるように。以上だ」
「「はい。失礼します!!」」
俺と比良は敬礼をして、艦橋から出た。
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