第四十話 猫神候補生

「……」


 横須賀を出港してからこっち、艦橋では妙な空気が漂っている。いや、俺にとっては妙でもなんでもないんだが、事情がわからない先輩達にとっては、なぜか幹部の様子がいつもと違うらしい。


「……」

波多野はたの、顔がゆるんでいるぞ。シャキッとしろシャキッと」

「わかってます」


 横にいた山部やまべ一尉に注意され、ゆるんでいた顔の筋肉を、意識して引き締めた。横須賀から母港までの操舵そうだは、いつものように紀野きの三曹が任されている。その呑気な先輩ですら、幹部達の様子がいつもと違うと感じているらしい。


―― そりゃ、艦橋がこんな状態になっていることを知ったら、先輩達だって絶対、顔がだらけまくるだろうなあ…… ――


 現在のみむろの艦橋は、子猫達によって占領されていた。


 ……そう、猫神候補生達が横須賀から、みむろに乗り込んできたのだ。



+++++



 一日前 横須賀


「うわっ、どうしたんですか、これ!」


 横須賀を出港したその日、勤務時間が終わり部屋に戻ったところで、目の前の光景に思わず絶句した。ここは俺と紀野三曹の部屋だ。なのに子猫達がいる。


『申し訳ありません。しばらく我慢してもらえますか。帰港したら下艦する予定なので』

「そりゃ俺はかまいませんけど、なんでまた……?」

『我々の基地で訓練を始める、猫神の候補生達なのですよ』


 椅子に座っている相波あいば大尉は、たくさんいる子猫達に囲まれて、少しばかり困った顔をしていた。


「いきなり護衛艦で教育訓練なんですか?」

『いえ。最初に乗るのは水中処分隊のゴムボートからですね』

「ゴムボート」

『まずは、船に乗ることから慣れていかないといけませんからね。こら、爪を立てたらダメだと言いませんでしたか?』


 大尉は顔をしかめながら、肩に飛び乗ってきた子猫に注意をした。たくさんいる子猫のうち、大尉の膝に乗っている三匹はかなり人馴れしているらしく、さっきから俺のことをジッと見つめていた。


『相波さん、この人は誰ですか?』

『相波さん、この人は僕達が見えるんですか?』

『相波さん、この人と遊んじゃダメですか?』


 子猫達は大尉にまとわりつきながら、口々に質問をする。


『この人は、波多野さんです。この部屋を使っている隊員さんの一人で、海士長さんですよ』

『見えていますね。ご挨拶をしてください』

『休むことも仕事ですからね。遊べませんよ』


 質問に答えている様子は、まるで幼稚園児と話している先生だ。


『海士長! 僕達よりえらいです!』

『こんにちはー!』

『お休みになったら遊んでください!』


「お世話係も大変っすね……」

『数年に一度、こういうことがあるのですよ。しばらく艦内が騒々しいことになるとは思いますが、波多野さんも我慢してやってください』

「いやまあ、寝るのを邪魔されなければ別に何匹いてもかまわないんですけどね……」


 猫大佐一匹だけでも安眠妨害状態なのだ。これだけの子猫がいたら一体ここはどうなることやら。


「俺、帰るまでまともに寝られるのかな……」


 今度ばかりはさすがの紀野三曹も、猫達の気配を感じるかもしれない。


『ああ、その点は大丈夫です。今はここにいますが、深夜帯は艦長室を使わせていただくことになっているので』

「それは良い考えかも」


 少なくともあの部屋なら、艦長を筆頭に誰かの安眠を邪魔することもないだろう。


―― 艦長の深夜のお散歩、もしかして候補生同伴かもなあ…… ――


 想像するだけで顔がにやけた。


「ところで、ここにいる候補性は、全部が猫神になるんですか?」

『よほどのことがない限りは、そうですね』


 膝に乗っている子猫達を床におろす。


「海自の基地で訓練をするってことは、すべてが護衛艦の猫神に?」

『いえ。護衛艦の猫神になる子もいれば、海保の巡視船や民間の船の猫神になる子もいます。たとえばタンカーやフェリーのような大型の船舶だと、複数の猫神が乗ることになりますしね』

「そうなんですか。てっきり一隻に一猫神様だと思ってました」


 意外な事実に驚いた。


『昔はそうだったんですが、最近は船も大きくなっていますからね。米海軍の空母などもそうですが、海自だと、ヘリ搭載艦には複数の猫神が乗っています』

「ってことは、お世話係さんも複数と?」

『そういうことになりますね』


 大尉は壁にかかっている時計を見上げる。


『さて、そろそろ夜の巡検の時間です。皆さん、行きますよ。私達がする巡検と、こちらの人達がする巡検は違いますからね。猫大佐の話をよく聞くように』


 猫神候補生達は一斉に返事をした。そして大尉は子猫達を引き連れて、部屋を出ていった。


「……すげーもの、見たな、いま」


 俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。



+++++



「波多野、顔」

「あ、はい」


 一尉の注意に表情を引き締める。


 ふねはいよいよ基地の入口でもある、湾に差し掛かっていた。今日は小雨まじりで視界がいつもより悪い。監視に立つ俺も、いつまでもニヤニヤしていられなかった。


「霧まではいかないが、かなりもやがかかっている。操艦は慎重に。監視は厳重に」

「了解しました」


 もちろん幹部も同じだ。さっきまで猫神候補生達のせいでなんとなく緩い空気だったが、湾に差し掛かってからは普段通りの張り詰めたものになっていた。艦長が腕時計を見る。


「まだ早い時間だ。この時間ならタンカーもフェリーも動いていないが、小型の漁船や釣り船が出てくる可能性があるな。小さい船は小回りがきくからと無茶をする傾向がある。特に気をつけろ」

「はい」


 双眼鏡を手に、艦橋の前に立つ。自分の隣に猫神候補生達がわらわらやってきたのを気配で感じた。だが今の俺は、みむろの大事な目の役割をつとめている最中なのだ。いくら子猫が可愛くてもニヤニヤするわけにはかなかった。


「……」


『もうすぐ湾に入ります!』

『監視をげんに!』

『今日は船団のお迎えの気配はありません!』


―― これはなかなかレベルの高いスルー検定だな…… ――


 ニャーニャー鳴くだけならまだしも、こうやって理解できる言葉で話をされると、なかなか無視するのは難しい。そんなことを考えながら「ん?」となった。


―― ん? 船団のお迎えってなんだ? ――


『あ、大佐があんなところにいます!』

『前方、監視中!』

『サバトラ大佐、かっこいいー!』


 その声に下を見れば、単装砲たんそうほうの上に猫大佐が座っていた。普段なら艦橋の艦長席で毛づくろいをしている時間なのだが、さすがに候補生達の前ではそうもいかないらしい。


―― 本来の猫神は、湾に入る時はああやって監視しているのか ――


 じゃあ普段はどうしてここで毛づくろいを?と疑問が浮上するが、そこは猫神の気まぐれというやつなのかもしれない。


―― いや、それより船団のお迎えってなんだよ…… ――


 ここで候補生達を問いただすわけにもいかず、モヤモヤとした気分になりながら監視を続けた。



+++



「艦長、接岸作業完了です」

「よろしい。機関、停止」

「了解。機関、停止します」


 そこでやっと全員がホッとした表情になった。ここを出港して約一ヶ月。久しぶりの母港だ。


 艦長がマイクをとった。


『こちら艦長。全員、作業の手を止めずに聞いてくれ。この一ヶ月、お疲れさんだった。病人も怪我人も出すことなく、無事に基地に戻ってこれたことは実に喜ばしいことだ。明日からはまた通常の任務に戻る。ゆっくり休める時間はないが、明日からはまた新たな気持ちで任務に励んでほしい。以上』


「本当にお疲れさんだった」


 艦長が艦橋にいる全員に声をかけた。そして何故か外を見てからニヤッと笑う。


「山部、艦長権限で許可を出すから、そこの海士長殿に下艦をする時間をやれ」

「はい?」


 一尉は首をかしげたが、艦長に外を見るようにうながされ、そっちを見た。そして合点がいったという顔をする。そしてニヤニヤしながら俺を見た。


「波多野、十分ほど時間をやるから下艦してこい」

「は?」

「お前の先輩が出迎えにきてるぞ」

「は?」

「間抜けな返事ばかりしてないで、外を見ろ」


 無理やり外に顔を向けされられた。まだ早い時間で基地内の人間の姿もほとんどないが、犬を連れた隊員が歩いているのが見える。


「あ、ゴローと壬生みぶ海曹」

「ちゃんと帰還の挨拶をしてこい。ついでに土産も渡してやれ」

「いや、でも、あっちも勤務中でしょう」

「艦長命令だ」

「……了解です」


 問答無用で艦橋から追い出された。仕方なく部屋に戻り、お土産の一つをロッカーから出す。壬生三曹にと買っておいたものだ。


「良いのかなあ、こんな派手な紙袋を渡しても……あっちだってパトロール中じゃ?」


 だが艦長命令と言われてしまっては渡すしかない。三曹には渡すと同時に謝っておかなければ。部屋から出ると、急いで舷門に向かい桟橋さんばしを渡った。ゴローは俺に気づいたのか、ものすごい勢いで尻尾を振っている。


「おはようございます、壬生海曹」


 三曹とゴローのもとへと走っていくと、一人と一匹の前で敬礼をした。


「おかえりなさい、波多野さん。やっぱり今日だったんですね。うちの隊長が、たぶん今日の早朝には入港だろうって言ってたので、もしかしたらと思ってゴローを散歩に連れ出したんですよ」

「勤務時間なんでしょ?」

「そうなんですけどね。今はゴローの訓練兼散歩で、パトロールってわけじゃないんです」

「そうだったんですか。あ、だったらこれ、渡しても大丈夫ですか?」


 そう言いながら、お土産の紙袋を差し出した。


「わあ、ありがとうございます!」


 三曹が嬉しそうに笑って袋を受け取ってくれた。


「御守のお礼です。ありきたりなナッツ入りのチョコレートなんですけどね」

「私、ナッツ入りのチョコ、大好きなんです!」

「それは良かった。あ、でもゴローにはなにもなくて。ごめんな、ゴロー。お前のお土産、見つけられなかったんだ」


 ゴローの頭をなでてやる。


「大丈夫ですよ。ゴローは波多野さんに会えただけで喜んでますから」


 それは激しく振り回されている尻尾からも伝わってきた。


「御守の御利益があったのなら良いんですけど」

「ありましたありました。お蔭様で、往復ともに波もお穏やかな航海でした」

「それは良かったです」


 それどころか幽霊退散にも効果があったんだが、それは俺だけの秘密だ。


『あ、犬だ!』

『大きい犬!』

『犬ー!!』


 その声に思わず振り返る。そこには桟橋を渡ってきた候補生達がいた。どうやら下艦してどこかに向かうらしい。


『よそ見をするな。はぐれるぞ』


 先頭を歩く大佐が彼等に声をかけた。候補生達は了解しましたと声を上げ、おとなしく大佐の後ろをついて歩いていく。


「どうしたんですか、波多野さん」


 三曹の声に慌てて前を見た。


「あ、いえ。今はちょっとしか時間をもらえてないので、ゴローと走るのは無理だなって」


 俺が言っていることを理解したのか、ゴローがしょんぼりとした顔をする。


「いえいえ、そんなこと気にしなくても。帰ってきたばかりなんです、ゆっくり休んでください。ゴローとの運動会はまた日をあらためてってことで」

「すみません」

「いつも無理を言って付き合ってもらっているのはこちらですから。こら、ゴロー、そんな顔して波多野さんを困らせない」


 三曹がゴローの頭に手を置いた。


「じゃあ自分はこれで」

「わざわざ降りてきてもらって、ありがとうございます」

「いえ。ではまた!」


 敬礼をすると、ふねに戻った。俺が乗艦すると同時に、艦長と副長がドアから出てきた。


「もう良いのか?」

「お土産を渡せました。時間をただき、ありがとうございます。お出かけですか?」

「総監部に報告だ」

「行ってらっしゃい」


 笛の音と共に二人を見送ると、艦橋へと戻る。


 ハワイへの航海も無事に終わった。明日からはまた、日本を守る日々が始まる。

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